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JOG(425) 白川静 ~ 世界をリードする漢字研究者

白川静のような碩学を持つ日本こそが、東洋文化の最終リレー走者としての使命を持つ。


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■1.思う、念(おも)う、懐(おも)う■

 漢字研究の第一人者、白川静の世界を覗いてみるには、次の言葉が良いだろう。

 今、日本語がもう一度復活しなければならない時期なのに、文字制限なんかがあって、それがうまくいかない。言葉が少なすぎるんです。自分の気持ちを述べようとしても、それができない。たとえば、「おもう」という言葉がありますが、そう読む漢字は今は「思」だけしかないんです。この字の上半分は脳味噌の形。その下に心を書くから、千々に思い乱れるという場合の「おもう」です。

『万葉集』では、「おもう」というときに「思」と「念」とがあって、「念」のほうが多いんです。「念」の上の「今」は、瓶に蓋をするかたちで、ギュッと心におもい詰めて、深くおもい念ずるという意味の「おもう」です。

 それから「懐(壞)」という字の右半分は、上に目があって、その下に涙を垂れている。下の衣は亡くなった人の襟元です。その襟元に涙を垂らして、亡くなった人をおもう、だから追憶とか、故人をおもう時に使う。「想」は遠く離れた人の、姿をおもい浮かべるというときに使う字。そうやって、みんな違うんです。それなのに、故人をおもうというときでも「思」しかつかえない。「思想」とか「追懐」とか「追憶」とかそんな言葉はあるのに、「想」「懐」「憶」は「おもう」と読ませないのです。[1,p376]

 万葉時代の我が先人達は「子の行く末を念(おも)い、亡くなった親を懐(おも)っいた」のに、現代日本人は「子の行く末を思い、亡くなった親を思う」事しかできない。こう対比すると、文字が貧弱になれば、我々の心の働きも貧しくなってしまう事が実感できよう。

 白川静の学問は、現代日本人の精神のあり方に重要な問題提起を行っているのである。

■2.明治青年の気概■

 明治43(1910)年生まれの白川静は、今年95歳となった。昭和51(1976)年、66歳で立命館大学文学部教授を定年退職し、73歳で完全に学校の業務から解放されると、それまでの漢字研究を集大成して、一般社会のために役立てようと、漢字の成り立ちを説明した『字統』、日本での漢字の訓読みに関する『字訓』、そして漢和辞典の最高峰『字通』の3部作、合計で200字詰め原稿用紙4万枚を、13年半かけて一人で執筆した。毎日出版文化賞特別賞、勲二等瑞宝章、文化勲章などを受賞し、まさに「現代日本の碩学」である。 

 その学問は、どのような志から始まったのか。

 僕らが若いときには、「東洋」という言葉がだいへん魅力的であった。西洋に対する東洋。これは古くは、幕末の佐久間象山あたりが「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」と言うとるんですがね。明治になって、岡倉天心の『東洋の理想』とか『茶の本』ね。それからのちには久松真一の『東洋的無』というのがありました。・・・だから東洋というものを実体的に考えておったんですよ。ところが、いよいよ学問をやりだした時代には、上海や満洲でごたごたやり出して、「東洋」はずたずたになってしまい、挙げ句の果てに国が滅びるほどの無残な負け方をした。そしていまはお互いにいがみ合いの状態ですわな。[1,p241]
 
 戦争に負けた時、ぶざまなことをして大変な負け方をしたので、元通り仲良くするためには、ただ優しくするくらいのことではいかんのです。日本が文化的にもしっかりしておって対等に付き合い、場合によっては尊敬の気持ちを持たせるくらいにならないと、日本にはもう立つ瀬はない。僕には、そういう気持ちも実はあった。[1,p316]

 まさに明治青年の気概である。

■3.漢字を通じて共有されていた「東洋の精神」■

 白川によれば、「東洋」という言葉は日本人の発明である。

 東洋ということばは、中国にはない。もし用いるとすれば、それは日本人を賤しんでよぶときだけである。東洋という語は、わが国で発明された。
 
 幕末に、西洋勢力が科学技術文明と武力をもって押し寄せてきた時に、わが国で、政治的・文化的独立維持のために「東洋道徳、西洋芸術」という考えが生まれたのである。しかし、白川は「東洋」が単なる概念でなく、歴史的な実体を持つものとして、実証しようとした。

 この東アジアにおいて最も特徴的なことは、漢字を共有し、漢字文化を共有しながら、それぞれの民族が、また独自の文化を発展させてきたという事実である。そこに共通の価値観というべきものがあった。その価値観が東洋の精神を生む母胎であった。[1,p9]

 かつて東洋は、一つの理念に生きた。東洋的というのは、力よりも徳を、外よりも内を、争うことよりも和を、自然を外的な物質と見ず、人と同じ次元の生命体として見る精神である。思考の方向が、他の文化圏とは根本的に異なっている。そしてそういう生きかたは、殊に漢字を共有するということによって確かめられた。漢字にはいわば、この文化圏の最も重大な紐帯をなしている。[2,p2]

■4.「眞」という字は「行き倒れ」をあらわす■

「東洋の精神」の一例として、白川が好きだという「保眞(眞
を保つ)」という言葉をみてみよう。

 この「保眞」の「眞」という字は、本来行き倒れという意味を持っています。上の「ヒ」みたいな字が倒れている人の形で、その下は目がぎょろっとして頭の毛が乱れておる様子。人間の死の中で、一番恐ろしい霊力を持っておるのはこの行き倒れなんです。だからいい加減には扱えんのです。『万葉集』では柿本人麻呂が行き倒れを弔う歌をいくつかつくっておる。・・・

 その行き倒れがなぜ永遠なるもの、真実なるものになるかというと、それの持っている呪力というものが何世代ののちまでその力を発揮するからです。これは永遠なる力、永遠の存在であるというので、「眞」になるわけですな。・・・

 つまり、「保眞」というのは、自然の力と合致することなんですね。眞というのは自然の生命力が永遠に貫いておることです。人界では行き倒れのような形であらわれるけれども、永遠の生命の一つの姿として、そういうものがあらわれてくる。そういう力は自然とともに悠久に働いておるという考え方ですね。[2,p229]

 自然の力と合致し、自然の生命力とともに生きては、死んでいく。これが、日本にも中国にも見られる「東洋の精神」の一端であり、これを回復しようと、白川は漢字研究に志したのである。

■5.失われいく共通の漢字文化■

 その東洋は今や、政治的にも「いがみ合い」の状態であるが、共通の「東洋の精神」もずたずたになっている。

 たとえば、韓国では漢字教育をやめてハングル表記になってしまった。挨拶の「アンニョン」が「安寧」と書かれていれば、その語感は日本人にも中国人にも直接的に伝わったはずなのに。

 ベトナムでは、フランスの植民地時代にローマ字表記となったが、医者を意味する「ポシ」が「博士」の事である事をしれば、すぐに理解できる。

 中国では音を中心に大胆な略字(簡体字)に改造してしまった。「達」は「しんにょう」に「大」と書き換えたが、これは現代中国語では「達」と「大」の音が同じだからである。これでは日本人や朝鮮人には、その意味は想像もできない。

 そもそも「達」の字は「羊」を含んでおり、羊の子はするりと生まれてくる事から、「すっと通り抜ける、何の障害もなく、勢いよく達する」という意味を持っている。たとえば「達筆」とはすらすらと美しい文字を書くこと、「達人」とは一般人には難しいことをすらすらとこなしてしまう人、というようにいずれも「すらすら」という語感が籠もっている。それが「大」となっては、中国人自身にも、そんな語感は分からなくなってしまう。

 こうして、各国が漢字を廃止したり、勝手に作り替えたりして、東洋の共通基盤だった漢字文化はばらばらになり、また若い世代は漢字で書かれた古典を読めなくなってきている。

■6.世界をリードする白川の漢字研究■

 こういう状況の中で、なんとか「東洋」の復活を目指して、白川は漢字研究の分野で孤高の歩みを続けてきた。

 中国では西周時代 (紀元前11世紀以降)の古代文字「金文」に関して優れた研究をなしてきた陳夢家氏が文革で殺されてしまった。その後に取り組んだ白川の4千ページもの研究書を超える研究は今後も出ないであろう、と言われている。

 台湾では金文に関する14巻3800ページの研究叢書が刊行されたが、そのうちの半分は白川の論文で占められている。白川の著作の多くが訳され、また白川が国際会議で発表をすると、特に若い研究者の間では共感する人が多いという。

 一方では、白川が台湾の雑誌に論文を発表する時に古文で書くと、先生方は「外国人でもこういう古文を書くのに、君らはなんだ」と学生を叱ったりした事もあったという。

 またオーストラリアやニュージーランドあたりからやってきて、「あなたの説はよく分かる。あなたの解釈を使って学位論文を書きたいがいいか」などと言う人も出てくるようになった。

 白川の学問は、漢字研究の分野ですでに世界をリードしている。「尊敬の気持ちを持たせるくらいにならないと」という志は、達成されているのである。

■7.日本で新しい生命を得た漢字■

 漢字というと、どうしても中国から借りてきたものという意識があるが、日本人は借りてきた漢字をそのまま使ったのではない。

 たとえば、漢字は表意文字であるから、3千数百年の間、中国人は同じ文字をその時々の発音で読んでいた。だから「博士」という字を、ベトナム人が「ポシ」と読もうが、日本人が「ハクシ」と読もうが、それは勝手なのである。

 この特徴を活用して、自国語の「おもう」に「思」の字をあてて「思う」と表記するという「訓読」を発明したのは、日本人の独創であった。さらに、音を正確に表現できないという漢字の弱点を、ひらがなやカタカナという表音文字で補完するという離れ業を、我々の先人は考え出した。[a]

 それ以降、訓読法で得た知識が、和漢混淆の文章の語彙、語法にそのまま使われるようになり、訓読によって吸収した中国語の表現のなかで、美しい、深いものを巧みに日本語にとりいれている。

 このような、国語で果たすことのできない新しい造語法として漢字を使いこなすという伝統は、江戸の末まで続いたわけですが、それが明治期において、新しいヨーロッパの学問が入ってきてから、日本人は思いのままに、漢字による造語がおこなわれて、このとき以降、日本人は完全に漢字を日本語化したといえます。音と訓の両方を完全に使いこなして、新しい語を作るようになったのも明治以降です。

 そして大正期に入ると、梁啓超など日本に亡命してきた中国人学者の手で、それらの新しくつくられた言葉が中国に逆輸入されるようになる。[1,p168]

 中国の外来語辞典を見ると「日本語」とされているものが非常に多い。政治分野だけでも、日本語からの輸入がなければ、現代中国では「国家」も「国民」もなく、「領土」も侵略できず、「覇権」も求められず、「表決」もできなかった。中国人が近代国際政治や民主政治を学んだのは、明治の日本人が創造した訳語を通じてなのである。[a]

 漢字は、中国で生まれたが、日本で新しい生命を得て、新たな成長を始めたと言える。

■8.東洋文化の最終ランナー■

 西洋文明もギリシアから始まったものが、ローマに受け継がれ、さらにフランスやイギリスなどで発展していったものである。言わば、聖火をランナーが次々と交替しながら、運んでいるような趣がある。

 中国でも、3世紀の三国時代あたりまでは、いろいろな人種が混じり合い、戦いながら、文化を高めていったが、それ以降は停滞に陥る。『論語』『史記』『春秋左氏伝』『三国志』など漢籍の代表的な古典はほぼ三国時代までに完成し、その後は停滞に陥る。

 僕は日本人がその後を受け継いでよく発展させたと思いますね。中国的な文化を一番深く理解したのは、僕は日本人だと思います。だから、アジア的な建築というようなものでも、日本においてそれが完成される。それから仏教なんかでも、日本において非常に落ちついた個性的なものになる。この東洋的と言われるような精神、美、あるいは思想というふうなもの、そういうようなものは、みな日本においてその完成態をつくり上げてきているわけです。[2,p211]

 白川の漢字研究は漢字文化の「完成態」を追求する最先端の努力と位置づけられるだろう。

 我が国では、さらに石井式のように幼児への漢字教育を通じて知能や情緒を伸ばす教育方法が開発され、成果を上げている。[b]

 中国大陸では簡体字の採用と、唯物論・拝金主義の横行によって漢字文化は衰退の極みにある。また韓国・北朝鮮は漢字使用廃止によって、すでに脱落した。そのような中で、白川静のような碩学を持つ日本こそが、東洋文化の最終リレー走者としての使命を持つと言えよう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a.

b.

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

  1. 白川静『回思九十年』★★、平凡社、H12

2. 白川静、渡部昇一『知の愉しみ 知の力』★★★、致知出版社、H13

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