JOG(1396) 世界史に遺る「明治の奇跡」の原動力
10年たらずで幕藩体制を中央集権国家に変革し、民主化革命、自由化革命、人材登用革命を成し遂げた明治の先人たちの苦闘。
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■1.海外からも高く評価されている明治維新
日本は、1854年の開国からわずか60余年で国際連盟の常任理事国になり、世界の指導的大国にのしあがりました。それもアジア、アフリカのほとんどの地域が欧米列強の植民地となり、人種差別に苦しんでいた時代に、有色人種で最初の近代国家を築き上げました。この世界史に遺る「明治日本の奇跡」は、歴史教育でももっと取り上げるべき、と考えます。
この点は、日本の多くの偏向した歴史学者が認めたがらないのですが、海外の学者の方が正当に評価しています。北岡伸一・東京大学名誉教授は次のように述べています。
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アメリカを中心として主に一九六〇年代に登場した近代化論者と言われた人々、たとえばエドウィン・ライシャワーやマリウス・ジャンセンは、このような明治維新のプラスの側面を強調した。
また、経済学者からは、ケネス・ボールディング(Kenneth E. Boulding, 1910-1993)のように、コストが小さくて持続的な成長をもたらした、つまりもっとも成功した革命は、アメリカ独立革命と明治維新であるという見方も提示され、今では多数派となっていると言ってよいだろう。[北岡、p21]
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経営学の創始者ピーター・ドラッカーも、次のように主張したと伝えられています。
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明治の指導者たちが達成したのは、近代国家への脱皮という変化を遂げつつ、日本的価値を維持するという連続性とバランスを上手にとったことだった。歴史的にみても、途方もない課題と混乱をこれだけうまく乗り切ってきた社会はほかにない。[佐藤]
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我が先人たちは「明治日本の奇跡」をどのように成し遂げたのでしょうか? 北岡教授は、次のように指摘されています。
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維新から内閣制度の創設、憲法の制定、議会の開設に至る変革は、既得権益を持つ特権層を打破し、様々な制約を取り除いた民主化革命、自由化革命であり、人材登用革命であった。[北岡、p16]
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今回は、この「民主化革命、自由化革命、人材登用革命」を、誰がどのような志で取り組んだのか、史実を辿ってみましょう。
■2.「人材登用革命」で登場した幕末・明治の為政者たち
「人材登用革命」の実態で、一番分かりやすいのは、幕末に活躍し、明治政府を担った人々の出自を見ることです。たとえば、維新の三傑のうち、大久保利通と西郷隆盛は2人とも、武士としては下から2番目の身分で約3000家もあった御小姓与という下級藩士の家に生まれています。木戸孝允は一応、上級藩士の下の方に入りますが、禄高は90石に過ぎません。
その他、明治の元勲となった長州藩の伊藤博文は百姓の子として生まれ、父が長州藩の足軽に入ったため、下級武士となりました。山県有朋も下級武士の生まれです。また日本陸軍の創始者と呼ばれる大村益次郎は村医の家出身で、武士ですらありません。こうした状況を北岡教授は次のように記述しています。
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さて、幕府と薩長の勝敗を分けたのは、能力主義であった。
雄藩の中には、薩摩藩のように、有能な下士を取り立てて力を発揮させる藩が増えてきた。幕府との戦いで存亡の危機に立った長州藩は、武士でない蘭学者の大村益次郎を軍指導者に起用し、武士以外の有志をつのって奇兵隊を組織した。そうした柔軟性を持った藩が、結局優位をしめた。[北岡、p80]
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薩長が勝って明治政府が生まれたのは「人材登用革命」の結果です。「民主化革命」、「自由化革命」というのも、このように出自に関わらず、志ある人々が自由に活躍し、かつ身分的な制約なしに政治にも参加した事を意味します。この意味では「民主化革命」、「自由化革命」を含めて「人材登用革命」と総称できるでしょう。
拙著『大御宝 日本史を貫く建国の理念』[伊勢]では、神武天皇が即位に際して発せられた「大御宝を鎮むべし」、すなわち「民を大切な宝物として、安心して暮らせるようにしよう」というのが、我が国の建国目的であり、それが最も実現に近づいたのが江戸時代だと述べました。
しかし、「大御宝」とは大事にされるだけではありません。その才能、適性を最大限に発揮して、共同体の中で互いに支えあう生き方をする存在です。江戸時代に蓄積された「大御宝」のエネルギーが、明治維新の「人材登用革命」によって、最大限に解放された、その結果が「明治の奇跡」だったと言えるでしょう。
■3.人材登用革命の基盤としての中央集権体制の建設
人材登用革命の大前提となったのが、幕藩体制を廃し、中央集権国家を築いたことです。幕末期には266もの藩が存在しました。これだけの藩が独自の領地と人民を抱え、半独立国のような形で、地方自治を行っていました。幕府は全国3千万石といわれる石高、領地のうち、約700万石、23%を直接支配しているだけでした。
平和な時期には、各地の特色を踏まえた安定的な政治ができるでしょうが、幕末期の欧米列強が迫り来る危機的状況では、迅速な対応はできません。やはり中央集権体制を構築して、人材や資金を迅速かつ集中的につぎ込んで国防の体制を築き上げることが不可欠です。そのなかで有能な人材を、出身地や階級にかかわらず、自由に活躍させていくことが急務でした。
それを実施したのが、明治2(1869)年の版籍奉還(全国の藩が、土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還)、明治4(1871)年の廃藩置県(藩を廃止し、国直轄の府県に一元化)の2ステップでした。それは従来の特権階級である武士たちが、自分たちの特権を放棄し、自らの階級を解体してしまう、という世界史的に例のない革命でした。
■4.かつての「朝敵」も「新しい日本をつくる同志」
しかし、その準備として、戊辰戦争で朝敵とされた多くの藩をいかに平穏に新しい統一国家体制に取り込むか、という課題がありました。これらの藩が朝敵とされ、新政府に恨みを持っていたら、国家国民の統一などできないからです。徳川氏は700万石から、駿府100万石に減らされましたが、北岡教授はこう指摘しています。
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徳川氏が関ヶ原以後の豊臣氏のような規模を持ち、また江戸に残ったとすれば、新政府は安泰とは言えなかったであろう。それでも、世界の中で見れば、敵に対する処分としては寛大なものだったと言ってよいだろう。[北岡、p94]
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その他、奥羽越列藩同盟などで官軍と戦った諸藩に対しては、石高の削減、藩主の更迭、重臣の死罪、軍資金の上納などが課されましたが、
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藩主で死刑となったものは一人もいなかった。取り潰しとなった藩も、会津(のち復活)と請西藩(上総国の一万石の小藩で、藩主が陣頭指揮して新政府軍と戦った)の二つだけであった(勝田政治『廃藩置県──近代国家誕生の舞台裏』、四五頁)。[北岡、p95]
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西郷隆盛は幕府側の主力となって戦った庄内藩に対して、庄内藩士がおどろくほど寛大な処分を行い、また武士の面目を尊重しました。その時に、「戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか」と語っていたました[JOG(925)]。「新しい日本をつくる同志」、この考えを基盤として、その後の版籍奉還、廃藩置県が進められたのでしょう。
■5.「王土王民」を実現する版籍奉還
版籍奉還を最も早く主張したのは木戸孝允で、慶応4(1868)年に極秘のうちに藩主・毛利敬親に言上し、同意を得ました。木戸は大久保に持ちかけましたが、大久保も賛成。大久保は薩摩藩主・島津忠義を通じて、朝廷に対して10万石を献上するという願書を提出していました。すべての土地人民は天皇が統治すべきとする「王土王民」の考えが浸透しつつあったのです。
中央集権国家としての再編が、かつて公地公民制をとっていた王政に戻る、という形で、すでに歴史的に経験済みであったのは幸いでした。フランス革命やそれに続くロシア革命、中国革命などのように、一部の革命家が机上の空論で描いた体制を目指した革命では、具体的なイメージがないだけに、議論が収束せず武力闘争になってしまいがちです。。
明治元(1868)年、姫路藩から版籍奉還の願いが出されました。朝敵とされていた同藩は、版籍奉還によって朝敵の汚名を返上しようとしたのです。これをきっかけに、伊藤博文が全国で版籍奉還を行うことを主張しました。実際に多くの藩は財政負担に苦しんでおり、統治の責任を返上したいという藩も少なくありませんでした。
こうした流れの中で、明治2(1869)年、大久保利通や板垣退助などが版籍奉還で合意しました。この合意に基づいて、薩摩、長州、土佐、肥前の4藩主が連名で「土地も人民も天皇の治めるものであり、それによって初めて海外と対抗することができる」と明治天皇に申請しました。それに多くの藩も追随し、旧藩主がそのまま知藩事(藩を治める知事)となりました。
■6.廃藩置県の大決断
しかし、版籍奉還を実施した後でも、中央政府はまだ独自の軍事力もなく、財政も貧弱でした。さらなる中央集権化を進めるには、藩を国直轄の県として、財政も軍事力も中央政府が握らなければなりません。これには有力藩が不平不満を持ち、特に薩摩の島津久光は急進的な変革には大反対でした。
明治4(1871)年7月上旬、山県有朋、井上馨、木戸孝允ら長州勢が廃藩でまとまりました。7月6日、山県が西郷に同意を求めに行くと、意外なことに賛成です。7月9日、西郷、大久保、木戸、井上、山県らが集まって、廃藩置県の断行を決定し、14日には在京の知藩事を集めて、廃藩置県を告げました。ほとんどの知藩事は、土佐や肥前すらも、事前に相談はありませんでした。
西郷や大久保、木戸らは、今まで、薩摩や長州の藩の力を背景に維新を進めてきました。それが今回は各藩の意見に反し、かつ薩長など中世以来の伝統を持つ藩を解体してしまおうとしたのでした。
この決定に関して、大久保は「今日のままにして瓦解せんよりは寧(むし)ろ大英断に出て瓦解いたしたらんに如かず」(このまま維新が瓦解するよりも、大英断の末に瓦解した方がよい)と決死の思いを述べ、また西郷は「反乱があれば自分が兵を率いて叩き潰す」という覚悟のもとでの断行でした。
こうして、1603年の江戸幕府創設以来、270年近い歴史を持つ幕藩体制は、慶応3(1867)年の大政奉還からわずか4年で完全に廃止され、我が国は中央集権国家として変革されたのです。北岡教授は、この時の福澤諭吉の反応について、こう書かれています。
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新政府の本質は攘夷であると信じ、その行方を深い懸念を持って見守っていた福沢諭吉は、廃藩置県を知って、この盛事を見たる上は死すとも悔いずと、狂喜乱舞したという。福沢の『学問のすゝめ』初編は明治五年二月に出ているが、これは、廃藩置県に対する歓迎、興奮から出たもので、この方向を推進したいとして執筆したものであった。[北岡、p105]
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■7.自由民主主義陣営における有色人種国家のリーダー
藩を廃止して、その次のステップは武士から武力という特権を奪い、「国民皆兵」を実現することでした。これを推し進めた山県は欧米の視察で、ドイツやフランスなどの徴兵制度を実見して、これこそが近代国家の軍隊のあり方だと考えたのでした。しかも、これはそのまま我が国の古代の姿でした。明治6(1873)年1月、徴兵令が施行されました。
徴兵制は軍国主義の制度ではありません。武士のみが武力を持つという階級制度を打破し、国民全員で国を守るという国民国家への道でした。
しかし、武士階級は藩がなくなっても、国から禄を支給されていました。全人口の5%程度の士族が、国家財政の4割弱の禄を受け取っていたのです。これを期限付きで、禄の数年分の額面でわずかな利子しか受け取れない公債に変える「秩禄処分」が、明治9(1876)年に実施されました。支配階級がほぼ無抵抗のまま既得権を失った、世界史的にも稀な例とされています。
「国民皆兵」の少し前から進められていたのが、「国民皆学」を謳った明治5(1872)年9月の「学制」です。身分の差も、男女の差もなく、「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」事を目指して、全国で5万3760の小学校建設が目指されました。それから約40年で、100%近い就学率を達成できたのでした。
こうした、文字通りの急進的な改革によって、我が国は欧米からの援助も投資もなく、国際機関の支援もない、人種差別と植民地化の時代に、独力で非白人国家として唯一の指導的大国にのしあがりました。その国際的地位は、今日でも主要先進国7カ国が集うG7で唯一の有色人種国家として、保たれています。
北岡教授は国連大使として、またJICA(国際協力機構)理事長として、途上国の発展に関わっていますが、途上国の経済発展、さらには民主主義の発展がいかに難しいか、という実感を吐露されています。
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したがって、多くの途上国にとって、非西洋から先進国となり、伝統と近代を両立させている日本という国は、まぶしいようなすごい国なのである。いつか日本のようになりたいと思っている国は数多いのである。[北岡、p25]
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経済規模においては中国に抜かれましたが、中国は日本や西洋の投資と援助という他力本願によって経済発展をしたに過ぎません。そして権威主義国の中心として、世界に不安をばらまいています。日本がG7に入っていなければ、有色人種には民主主義は不可能という偏見が今でも残っていたでしょう。
自由民主主義陣営において、有色人種国家のリーダーたる日本の責任はまだまだ重いのです。我々がその責任をどう果たしていくか、明治の奇跡を成し遂げた先人たちは、草葉の陰で見守っているでしょう。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
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・JOG(925) 西郷隆盛に学んだ庄内藩士たち(動画+読み物)
西郷に学んだ庄内藩士たちは「新しい日本をつくる同志」となった。
https://note.com/jog_jp/n/n6971dbb6b960
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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・佐藤等「渋沢栄一とドラッカー」、『致知電子版』
https://magazine.chichi.co.jp/articles/3836580861/
・北岡伸一『明治維新の意味』★★、新潮社、R02
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4106038536/japanontheg01-22/
■伊勢雅臣より
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