JOG(353) セブン-イレブン・鈴木敏文 ~ 原則居士の独創性
世界18カ国、2万5千店に広がるコンビニエンス・チェーンを生み育てた独創性。
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■1.「あなた方は、日本の実情がわかっていない」■
あまりにきっぱりとした言葉に、通訳はそのまま訳しても良いのか、問い返したほどだった。1973年5月、米国テキサス州ダラスにある全米最大のコンビニエンス・ストア・チェーン「セブン-イレブン」を経営するサウスランド社で、イトー・ヨーカ堂の鈴木敏文は一歩も譲らない交渉ぶりを見せていた。
日本の小売業の革新にセブン-イレブンのシステムを導入しようと、2年かけて、ようやく交渉のテーブルにまで持ち込んだのである。サウスランド社は「やるなら合弁で」と要求したが、鈴木は論理だてた反論で、撤回させた。
その次の要求は技術提供の代価として売上げの1%のロイヤリティだった。しかし鈴木は、米国内でも1%なのに、そのシステムを日本に合うように作り替えねばならないのだから、0.5%が妥当だと反論した。交渉は決裂寸前までいったが、筋道をたてた鈴木の反論に、ついにサウスランド社は折れて、交渉が成立した。
帰国した鈴木は羽田空港に着くと、そのまま報告のために、会社に向かった。役員たちはイトーヨーカ堂ペースの妥結に「ごくろうさん」とねぎらいの言葉をかけてくれたが、鈴木は「大変な重荷を抱えた」という暗鬱な気持ちになっていた。セブン-イレブンのシステムを日本に持ち込んで、果たしてうまくいくのか。うまくいくはずだという考えはあったが、本当の所はやってみなければ分からない、というのが、鈴木の胸中だった。
■2.「背筋が凍りつく思いがした」■
その年の11月にサウスランド社との契約が成立し、鈴木は11名のメンバーを引き連れて、米国で研修を受け始めた。
それは、米国と日本はバックグラウンドがまったく違う、ということである。かりに米国のものを、日本にそっくりそのまま持ち込んでも、うまくいくはずがない。・・・それに思い至ったとき、思わず背筋が凍りつく思いがした。しかも、社内外の反対があったのに、セブン-イレブンの事業をスタートさせるために、こうして米国にやってきた以上、口が裂けても「この事業は失敗だった」とは自らの口からは言えない。
それでも一ヶ月くらい、あちらのシステムについて、現地でレクチャーを受けたり研修を受けている間中、私自身は「これをどうすれば、日本で成功させることができるか」とそればかりを考え続けていた。[2,p259]●
たとえばアメリカのセブン-イレブンでは、ハンバーガーやサンドイッチなどのファーストフードを売っている。日本でも同じ事をすべきだ、というのが、研修メンバーの意見の大勢だった。その中で鈴木が「いや、日本ではそれはアンマン・肉マン、すし、おにぎりと解釈すべきだ」と言い出すと、みな「そんなバカな」という顔をした。
サウスランド社のシステムをそのまま日本に持ち込むのではなく、その原則を理解した上で、どう換骨奪胎して日本の異なる環境に適用するのか。鈴木はこの姿勢に徹して、日本でのコンビニエンス・ストアのあるべき姿を考えていった。
■3.「ママ、きれいなお店!」■
昭和49(1974)年5月15日、東京の江東区でセブン-イレブンの第一号店がオープンした。酒屋の二代目、24歳の山本憲司がぜひコンビニをやってみたい、と申し入れてきたので、その店を改造して一号店とした。最初は実験のために直営店でやっては、という社内の声を鈴木は押し切った。失敗すれば山本に迷惑をかける。そういう背水の陣でこそ、将来、数千店を展開するノウハウも開発できる、との考えだった。
アメリカではサウスランド社が投資して新たな店舗を作り、それを希望者に貸して、コンビニを経営させる。しかし、そのやり方では既存の商店街と競合することになる。鈴木は「既存小売業との共存共栄」が原則だと考えた。そのためには、既存の商店とフランチャイズ契約し、その店主が金を出して自店をコンビニに改造し、自ら経営するという形にしたのである。
開店すると、物珍しさも手伝って、朝早くだというのに次々と客が入ってくる。母親に連れられた4歳ぐらいの女の子が、入った途端に声をあげた。「ママ、きれいなお店!」夜は眠気覚ましのコーヒーを求める深夜のタクシー運転手や、夜食を求める受験生が来る。
初年度の売上げは1億83百万円。2年目には2億42百万円。売上げも利益も酒屋時代の2倍になった。酒屋時代には売上げの半分は配達でこなしていたが、そんな重労働もやらなくて済む。店は16時間・年中無休でも、パートタイマーとシフトを組んでこなすので、8時間労働で済む。山本は「セブン-イレブンをやってよかった」と心から思った。
■4.家族商店を長時間労働、重労働から解放する■
日本の小売業は家族経営が中心で、商品の仕入れから配達まで重労働をこなさねばならない。パートを雇おうにも、そもそも仕入れなど、任せられない部分も多い。いきおい、店を開けている時間は、店主や奥さんがずっと対応しなければならない。その長時間労働、重労働を見ている子供たちは後を継ごうとはしない。
通産省や中小企業庁などは商店街で一斉に休みをとる事を勧めていた。これで店主や奥さんの労働時間を短縮し、商店街全体で休めば、客が他の店に流れることも少ないだろう、という発想だ。
これはおかしい、と鈴木は思った。前近代的な商店経営を棚上げにして、客に不便をかけても休みを多くとる。そんな商売が繁盛するわけがない。朝7時から夜11時まで、年中無休で開いているコンビニこそ、お客にも喜んで来て貰える。そのためには店主や奥さんが休んでいる時間でも、パートが代役を務められるよう、仕事のやり方を単純化・標準化・合理化するのである。そしてセブン-イレブンではオーナーが疲れていてはよい商売ができないからと、かならずパートを雇わせる。酒屋の場合は、店主が一人で重いビール・ケースなどを配達しなければならないので、神経症に悩む人が多い。しかし、セブン-イレブンの店に改装すると、配達はなくなるので、いつの間にか神経症も治ってしまう。
■5.3千品目の品揃え■
セブン-イレブンのもう一つの秘密は「仕入れ」にある。人間の一日の生活には3千品目ほどの商品が必要だという。だからセブン-イレブンの店は3千もの品揃えをする。
これだけの品揃えをしようとすると、100社以上の問屋から商品を卸して貰わねばならない。個人商店だったら、問屋から商品を買い集めるだけで、店主は一日中駆けずり廻らなくてはならない。それに、そもそもビールが一日5本しか売れないから、5本だけ売ってくれ、と言っても、「そうは問屋が卸さない。」何ケースという大きな単位でしか売ってくれないから、3千品目を集めたら、売り場面積の何倍ものストックヤードが必要になる。
これがセブン-イレブンに加盟すると、伝票一枚で3千品目のどれでも細かな単位で発注できるようになる。また本部の方では常時各商品の売れ行きを見ていて、1年間に70%の商品は入れ替えてしまう。どういう商品が売れているか、それらをどう仕入れ、どう陳列すべきか、本部のカウンセラーがきめ細かく指導してくれるのである。
■6.加盟した人たちが一番びっくりすること■
7時から11時まで16時間、年中無休で開店していて、3千品目もの生活必需品、人気商品が揃っていれば、客の方から集まってくるのも当然だ。セブン-イレブン本部の店舗開発担当は語る。
菓子屋から転身したある加盟店のオーナーもこういう経験をした。
既存の生産性の低い個人商店を近代化し、顧客の利便性を劇的に高めて、売上げと利益を大幅に伸ばす。鈴木が狙ったのは、まさしく日本の小売業の革新であった。
■7.「こりゃあこっちも本腰を入れないとついていけないな」■
しかし、こういうシステムも一朝一夕にできたものではなかった。たとえば、従来の大量卸に慣れた問屋に、いかに小口配送をさせるかも、難しい壁だった。鈴木は取引先を集めて、セブン-イレブンの構想を示し、こう呼びかけた。
ある卸業者は、当時をこう振り返る。
いかに必要な商品を必要なだけタイムリーに供給するか、という課題を追求していくうちに、たとえば豆腐、コンニャク、生麺、納豆といった商品を扱うベンダー17社を説得して、共同配送センターを作らせ、1台の配送車でこれらを混載して、各店に配る、というような従来の業界常識では考えられなかったシステムも登場していった。「共存共栄」を原則とする鈴木の小売業の革新は、卸業の革新にまで遡っていったのである。
■8.アメリカのセブン-イレブンが凋落した原因■
こうした革新をたゆまず続けて、セブン-イレブンは急成長を続けた。第一号店から24年後の平成15年8月には店舗数1万の大台にのせた。チェーン全体の年間売上げは2兆2千億円。第2位のイオンの1兆7千億、第3位ダイエーの1兆5千5百億を大きく凌駕している。経常利益は年間16百億円と流通業界では他を引き離し、株式上場以来、23年間連続で増益増配を続けている。
一方、アメリカの本家のセブン-イレブンは倒産に追い込まれ、イトーヨーカ堂グループの傘下に入って、鈴木敏文が中心となって再建を進めている。アメリカのセブン-イレブンが凋落した原因を鈴木は次のように読んだ。
■9.サービス分野にも発揮された日本の独創性■
鈴木は再建にあたって、ディスカウントをやめさせようとした。しかし、米国側の人間は「日本と米国は違うんだから、日本からノコノコやってきて、そんなことを言ってもダメなんだ」と言うことを聞かない。日本からハワイに送り込んだ社員も、「こちらではどこも安売りをやっているので、ディスカウントをやめたら売れなくなるのではないか」と報告してきた。
鈴木は「ハワイは58店しかない。全部潰れたって構わないから、ディスカウントをやめろ」と一喝した。実はディスカウント路線を走ることで、品揃えが3千品目を大きく割っており、豊富な品揃えというコンビニエンス・ストアの「あるべき姿」を忘れていたのである。鈴木はディスカウントをやめさせると同時に、ハワイという地域で本来売るべき商品を拡充させた。鈴木のコンビニの原則に基づいた指導で再建も軌道に乗りつつある。
コンビニエンス・ストアとはアメリカ発のアイデアであるが、原則居士・鈴木敏文はその原理原則を究明していくうちに、全く別のものに進化させてしまった。サウスランド社の始めたコンビニエンス・ストアと、現在のシステムでは、真空管のテレビと液晶テレビほどの違いがあると言ってよい。その進化したシステムが今や世界18カ国、約2万5千店で稼働している。
コンビニエンス・ストアは、テレビや自動車などのモノづくりに見られた日本人の独創性が、サービス分野にも発揮された事例である。そしてそれは多くの国において、小売業の生産性向上と、消費者の利便性向上に大きな貢献をなしている。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 緒方知行、「セブン-イレブン創業の奇跡」★★★、 講談社+α文庫、H15
2. 緒方知行、「鈴木敏文語録」★★★、祥伝社黄金文庫、H11
1-22/© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.
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