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JOG(426) 中山素平 ~ 「財界の鞍馬天狗」

日本経済で問題が起こると、すぐに駆けつけ、さっと解決しては去っていく無私の人生。


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■1.「財界の鞍馬天狗」■ 

「財界の鞍馬天狗」と呼ばれた中山素平が今年(平成17年/2005年)11月19日に亡くなった。享年99歳。「鞍馬天狗」と言っても、若い世代は知らないだろうが、白馬にまたがり、頭巾に黒の着流しスタイルで、悪人をばったばったとなぎ倒す、往年の人気キャラクターである。名付け親の草柳大蔵はこう書いている。
  

 中山素平の印象は、背広を着た鞍馬天狗。映画やテレビに出る鞍馬天狗が、いずれも男前で長身、痩せぎすなように、中山素平もスマートである。しかも、海運再編成・日産プリンスの合併・証券恐慌の際の日銀特融問題・新日鉄の合併というふうに、経済界の危急存亡が伝えられると、かならず姿をあらわして問題を解決する。その間の動きが迅速果敢、神出鬼没、さらに問題を解決したあと、後も振り返らずに立ち去っていく姿は、いよいよもって鞍馬天狗を彷彿とさせる。[1,p11] 

鞍馬天狗


中山素平の行動を活写した一文である。

■2.「流れのままに」■

 中山素平は明治39(1906)年、東京に生まれた。「素」は 「白より白く」の意味で、飾らぬ人間になれ、との親の願いからだという。

 願いの通り、中山は飾りや衒いのない、「流れのままに」を モットーとする青年となった。昭和4年に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し、就職難の時代にたまたま求人のあった日本興業銀行に「ちゃんとした考え方があるわけではなく」入行した。

 最初に配属されたのが経理課。商業学校出身者が多く、算盤もできない大学出身者は「女子行員にばかにされる」と愚痴をこぼす中で、中山は算盤も出来、仕事をそつなくこなしていた。

 東大出の同期が、さっさと経理を出て、銀行の顔になるような華やかな部署へ移れ、とアドバイスすると、中山は答えた。僕はそういう生き方はしない。とにかく、ここでの仕事を何とか物にしたい。出ないで、できるだけ収穫する。

 しかし、何でも「流れのままに」現状肯定していたのではない。おかしいと思った事は見過ごさなかった。たとえば、当時は大学出と商業学校出とは、昇進も待遇もまるで違っていた。中山は「ぼくが興銀にいるうちに、この身分制度を絶対に変えてみせる」と言い出した。  

 女子行員たちは「できっこないわ」と取り合わなかったが、空証文ではなかった。15年後に人事部長にまると、身分制を撤廃した。

 しだいに所を得て、課長になったら課長の段階で、部長になったら部長の段階でできる改革をやっていこう。「流れのままに」、しかし、その中でしつこく改革を追求していくのが、中山の生き方であった。

■3.「曲げない、とことんやる」■

 昭和18(1943)年1月、中山は部下24人を率いて、「南方占領地区出張」を命ぜられた。25人はシンガポール行きとマニラ行きの二手に分かれ、それぞれの土地で軍が接収した工場や鉱産の評価を行う任務である。安い払い下げを狙う民間業者は、一部の高級将校を動かして、「評価が高すぎる」と圧力をかけ、接収した軍人は戦果として高い値段を望む。両者の板挟みの中で、中山らは厳格な審査を貫いた。  

 中山は任務外にも勉強になる仕事をしておこうと、軍票(軍 の発行する臨時貨幣)乱発後に予想されるインフレについて、対策を検討しておくこととした。所管の敵産管理部長に会ってその許可を求めると、部長は判断に困って、上司に話せと言う。その上司も同様で、だんだん上がっていって、ついには総参謀長にまで会った。

 こういう考えでやろうとなったら、これはしつこいんです、僕は。曲げない、とことんやる。

 総参謀長にも物怖じしなかったのは、「だって、ぼくは興銀の連中の総司令官だから」

 2年近くシンガポールに滞在して、ほぼ使命も果たしたので、興銀チームも帰国することとなったが、その頃は戦局も悪化していた。中山が部下をすべて先に帰らせてから、帰国の手続きをとると、担当の軍曹が言った。「あんたは偉い。最後まで残っていた。だから特別に羽田に行く飛行機に乗せてやる」

■4.興銀の生き残りを賭けた戦い■

 終戦後、占領軍が乗り込んでくると、興銀は軍需産業をバックアップする中枢の金融機関だったため、戦犯銀行扱いされ、「興銀の葬式を出してやる」と息巻く総司令部高官も現れた。

 当時の河上弘一・総裁は、常々「日米戦争はしてはいけない、敗北は必死」と考えていたが、いざ開戦となっては、全力で戦うしかない。しかし、普通の銀行が軍需産業への融資に関わって傷を深くすれば、戦後の立ち直りが難しくなる。だから危険の伴うこの種の融資は興銀が進んで引き受ける、という考えからだった。河上総裁は総司令部により追放された。

 河上を尊敬する中山は再建準備室長となり、興銀の生き残りを賭けての戦いの指揮をとることになった。  

 占領軍は、各企業が長期産業資金を直接、金融市場で調達す る、というアメリカ流の考え方を日本に押しつけようとしていた。興銀が債権を発行して資金を集め、長期・戦略的に企業に貸し出すというやり方は、いかにも「軍国主義を金融面で支える銀行」というように見えたのだろう。

■5.「しつっこいというか、もうとことんやる」■

 しかし、日本の主要都市のほとんどが焼け野原になっており、膨大な長期復興資金を必要としている。一方、日本の直接金融市場はもともと発達していなかった。そこへ一気に直接金融へ、というのは、日本に自殺を強いるのに等しい要求であった。日本復興のためには興銀が必要だとの信念は譲れなかった。

 いまは無理。日本での直接金融には五十年かかる。五十年後、興銀は要らないということになれば、それはそれで日本のためにいいんだが。

 こう考える中山は、ほぼ2年間、毎日のように総司令部に通い、時には朝から夕方まで粘った。

 私個人の去就でなく、所信だとか、銀行としての使命だとか、そういうものについては、決して流れるままにならない。しつっこいというか、もうとことんやる。

 とは言っても、総司令部通いも眉つりあげてではなく、気後 れもしない。「総司令部といっても、気のきいた人は少なく、大半は大したことなかった」と余裕の態度であった。

 陳情先の一つの経済科学局長のマッカート少将は「興銀は、 戦後インフレーションの元凶だ」と言う。それは戦後設けられ た復興金融金庫と混同していると、中山が指摘すると、マッカートはその場で電話して確認してから、「おまえの銀行は、いい銀行だ」などと顔を和ませた。局長の前歴は、高射砲隊長であった。

 こんな努力を2年も続けている間に、米国の考え方が、共産陣営との対立に備え、日本経済を発展させようという方向に変わり、長期産業金融機関としての興銀はようやく存続を許されたのである。

■6.鉄鋼業界の技術革新を後押し■

 その後、中山は興銀常務から、一時期、新たに創設された日本開発銀行(開銀)に出向し、また興銀に戻っては、頭取にまで上り詰める。その間の出処進退は、あいかわらず「流れのままに」であった。

 開銀出向の際は、当初、副総裁という話だったが、日本銀行 が副総裁を出すと言ってきたり、大蔵省がさらに割り込んで、筆頭理事を送り込むとして、「次席の理事」という話になった。興銀そのものが馬鹿にされたとして、周囲はいきり立ったが、当の中山は「二番だろうが、三番だろうが、わたしはちっとも構いません」と平気だった。貴重な政府資金を復興に生かす仕 事であるし、そのために必要な人材を出すのが興銀の伝統と、中山の理由は単純明快だった。

 開銀の新規融資の目玉となったのは、川崎製鉄千葉製鉄所で の高炉建設への大型融資だった。しかし、昭和25(1950)年当時、悪性インフレを懸念していた日銀の一万田(いちまだ)総裁は、金融引き締め政策に逆行する巨額投資に憤り「製鉄所 にペンペン草をはやしてやる」と放言した。

 たしかに、資本金5億円の企業が170憶もの投資をし、さらに先発メーカーが八幡・富士・日本鋼管と3社もあるのに、高炉の経験を持たない川鉄がいきなり世界最新鋭の高炉技術を導入するというのは、無謀に見える。

 しかし、中山がその投資計画を詳細に審査させた所、技術的にもよく練らていた。また今後の鋼材の需要が急拡大すると予想されていたのに、先発メーカーの高炉は老朽化して、生産性が低下している状況であった。川鉄が最新鋭の高炉を建設すれば、先発メーカーも刺激されて、日本の鉄鋼業界全体に技術革新が進み、国際競争力がつくと、中山は考えた。

 開銀の役員の中で中山一人が融資に賛成し、通産省の後押し も得て、川鉄の計画は日の目を見ることになった。3年後、世界最高水準の一貫製鉄所が稼働し、これを契機に日本の鉄鋼業は世界のトップレベルに上り詰めていった。これが日本経済の高度成長の原動力となったのである。

■7.「メインバンクにしたいナンバーワン銀行」■

 興銀は、あるアンケート調査で、「メインバンクにしたいナンバーワン銀行」とされた事もあった。その理由は、次のように中山が語っている。

 興銀は、戦前から十年金融とかでやってきた。経営者がどうだとか、設備がどうだとか、いろんな観点から調査して貸すが、長期のことなので、途中、いろいろな経済界で起きた変化で傷を負ったりするし、風邪を引くこともある。そのときに手当てしながら治してやって行くのが、長期の産業金融というものだ。潰れるべきものは潰してしまえという意見もあるが、そうは行かない。

 このため、「興銀は潰さない」とまで言われるようになった。場合によっては、メインバンクでもないのに救援に乗り出した。

 その代表例が、山一證券であろう。昭和39(1964)年、不況の中で、山一證券が経営危機を迎えた。ワンマン社長の下で、無理な拡大路線に走った反動で経営が苦しくなり、役員間でも対立があった。

 興銀の山一への融資額は、富士、三菱に次いで三位であったが、社長を出してくれ、との要請が、頭取となっていた中山の所に来た。

 中山は、興銀の同期で、日産化学の立て直しに成功したばかりの日高輝に白羽の矢を立てた。海外出張から戻ったばかりの日高を羽田に迎えて、最初の口説きを行った。それからも中山はしつこく迫って、ついに日高を口説き落とし、山一の社長に 送り込んだ。 

■8.証券業界の危機を救う■

 昭和40(1965)年に至っても、市況はいっこうに回復せず、山一の経営危機がうわさにのぼるようになった。日高を中心に、富士、三菱、興銀の3行で懸命に再建策を練り、まずは3行の貸し出しの金利を棚上げし、さらに日銀に支援を要請した。

 しかし、日銀は立場上、個別企業に対する支援には踏み切りにくいこと、無担保貸し出しはできない事を理由に難色を示していた。

 5月21日、山一の経営危機がマスコミに洩れ、投資信託の解約を求める客が山一の各支店に押し寄せて、取り付け騒ぎとなった。その日の午後、3行の頭取が揃って記者会見を行い、中山が代表して山一再建案を発表したものの、投資家の動揺はおさまらない。解約を求める客が他の証券会社にも殺到し、業界全体に信用不安が広がろうとしていた。

 中山は大蔵省を動かして、3行と大蔵省、日銀の緊急首脳会談を開催させた。「日本銀行は信用制度の維持のために必要な業務を行う」という抽象的な日銀法25条を活用して、日銀から特別融資を行うしかない、というのが中山の考えであった。 ためらう日銀首脳に対して、席上、田中角栄・蔵相が一喝してこの案を飲ませ、その日の深夜、記者会見を開いて、「日銀から無担保・無制限に山一に特別融資を行う」と発表した。

 中山が描いたシナリオを、田中蔵相が劇的に演じて、証券業界の動揺は収まった。その後、日高輝を中心に社員が一丸となってまとまり、管理職全員がボーナス返上までして、山一再建に邁進した。その結果、約4年で日銀からの特別融資を返済して、健全経営に戻った。

 山一が潰れず、証券業界全体の危機を回避できたのは、日高 を送り込み、大蔵省を動かした中山の陰の奔走による所が大きい。

■9.無私の活躍を続けた人生■

 戦前・戦後を通じ、日本の資本主義の発展には、政府よりも興銀・開銀などによる融資政策が戦略的な役割を果たした、とするアメリカの学者の研究がある。たしかに、川鉄千葉への融資や、山一支援での興銀・開銀の果たした役割を見ると、説得力のある説である。そして、その中心にいたのが中山素平であった。

 中山のモットーは「流れのままに」だったが、それは「私個 人の去就」に関してであって、日本全体の事や、その中での興 銀の使命に関しては、「決して流れるままにならない」。日本経済の「流れ」を復興から高度成長へと導いくために「しつっこいというか、もうとことんやる」。

 日本経済の危急存亡の際に、すぐに駆けつけ、さっと問題を 解決しては去っていく「鞍馬天狗」として、無私の活躍を続けた人生であった。

 (文責:伊勢雅臣)

 ■リンク■

 a. JOG(103) 下村治   
  高度成長のシナリオ・ライター。 
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon リンク切れ     

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 城山三郎『運を天に任すなんて』★★★、新潮文庫、H15 

2. 高杉良『小説 日本興業銀行』全5巻★★、講談社文庫、H2 

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