JOG(389) 昭和天皇を護った二人のキリスト者(下)
天皇を処刑して、共産革命を引きおこそうとするソ連の野望にフェラーズは立ち向かった。
前号の続きです。
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■1.マッカーサーへの意見書■
フェラーズは、天皇が帰られた後に、執務室に閉じこもり、マッカーサーへの意見書の仕上げに没頭した。意見書の原稿を書き上げると、すぐに恵泉女学園の河井のもとに届けさせた。河井からの意見をもとに修正し、再度チェックを受けてOKを貰ったのが10月1日。翌日、フェラーズは完成した意見書をマッカーサーに提出した。二人の合作と言ってよい。
意見書では、冒頭で「彼らの天皇は、祖先の美徳を伝える民族の生ける象徴である」と、ハーンから継承した天皇観から説き始め、次に今回の戦争に関しては、「天皇が自ら起こしたものではないことを立証しうる」と述べた。続いて、
■2.戦争裁判で天皇を裁けば■
フェラーズは同様の文章を家族の手紙にも書いており、この部分はまさに彼の実感そのままである。
したがって、天皇を大いに利用したにもかかわらず、戦争裁判のかどにより彼を裁くならば、それは、日本国民の目には背信に等しいものであろう。それのみならず、日本国民は、ポツダム宣言にあらまし示されたとおりの無条件降伏とは、天皇を含む国家統治機構の存続を意味するものと考えている。
もしも天皇が戦争犯罪のかどにより裁判に付されるならば、統治機構は崩壊し、全国民的反乱が避けられないであろう。国民は、それ以外の屈辱ならばいかなる屈辱にも非を鳴らすことなく耐えるであろう。
後半は河井道の「陛下が殺されるようなことがあったら、血なまぐさい反乱が起きるに違いありません」とフェラーズに語った言葉に基づくもののようだ。
そして「それ以外の屈辱ならばいかなる屈辱にも耐えるであろう」とは、「堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ以て万世の爲に太平を開かむと欲す」という終戦の詔勅を思わせる。これも終戦の詔勅に関して、「天皇の父親らしい戒めに対して、国民は孝心を明らかにして従順に従ったのであった」と語った河井の思いが反映しているのだろう。
フェラーズの意見書には、河井を通じて、当時の日本国民の天皇への「敬慕の念」が注ぎ込まれていた。
■3.「相互の尊敬と信頼と理解」■
意見書はこう結ばれた。「相互の尊敬と信頼と理解」という言葉には、初めて来日した時に「日本は魅惑的で美しい。神秘に満ちた心温まる国だ」と感じて、河井らとの交友を築いてきたフェラーズの体験が窺われる。そうした友好関係こそ「米国の長期的利益」となる、というのがフェラーズの信条であった。
■4.「ソ連は、日本に革命が起きることを望んでいる」■
2日おいて、10月4日にフェラーズは第2の覚え書きを提出した。
当時、ソ連の共産党機関誌「プラウダ」は激しい天皇制批判を繰り返していた。また日本共産党も「戦争犯罪人追求人民大会」を開き、1600人にのぼる戦犯リストの冒頭に昭和天皇を挙げていた。
天皇が戦犯裁判で処刑となり、国中に反乱が起きれば、それが共産革命の引き金になり、日本を共産陣営に追い込む結果となりかねない。フェラーズは危機感を募らせていた。
10月2日、皇族の梨本宮守正元帥が、そして6日には元首相・近衛文麿、天皇側近の内大臣・木戸幸一と、皇族と側近にまで逮捕の手が伸びていた。
■5.マッカーサーの回答■
11月29日、アメリカの統合参謀本部は、マッカーサーに対して指令を伝えた。
米国政府は天皇訴追を十分ありうるものとして、マッカーサーに判断に必要な証拠の収集を命じた。この回答として、翌昭和21(1946)年1月25日、陸軍参謀総長アイゼンハワーあてに電報が送られた。
と始まるこの回答で、まず大日本帝国憲法はヨーロッパの立憲君主制と同じ原則に則っており、内閣が行った政治的決定を天皇は裁可するだけで、拒否する権限はなかった事が説明されている。
最後の一節には、また河井道の影響が窺われる。河井はフェラーズに勅語や御製を示して、天皇の平和を求めるお気持ちを伝えていた。恐らくは、開戦前の御前会議で昭和天皇が「四方の海みなはらから(同胞)と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ」との明治天皇御製を示されて、再度の外交交渉を求められた事もその中にあっただろう。
■6.「あれはカワイ・ミチから授かったものだ」■
続いて、回答書では天皇を訴追した場合に、「日本国民の間に必ずや大騒乱を惹き起こし」、そのような事態に対処するには、百万の軍隊と数十万の行政官が必要となる、としている。主張の内容は、フェラーズの覚え書きをそのまま引き写したものである。
マッカーサーはフェラーズの覚え書きを机の左の引き出しの一番上に入れ、しばしば取り出しては読んでいた。フェラーズは後に語っている。
このマッカーサーの回答書で、米政府の天皇不起訴の方針は固まった。
■7.東条の覚悟■
米国はこれで固まったが、ソ連は強硬に天皇訴追を要求していた。3月2日から東京に終結した連合国各国の国際検察局による被告人選定作業が始まった。
フェラーズはこの時期、天皇の無罪を立証すべくあらゆる手を尽くした。3月6日、終戦時の海軍大臣・米内光政を総司令部に呼んで、こう言った。
米内は「まったく同感です」と賛同し、獄中の東条に弁護人を通じてフェラーズの意を伝えた。東条は答えた。
東条は東京裁判において、大東亜戦争は自衛戦であり国際法に違反していないこと、また開戦の決定は内閣の責任であり、昭和天皇が拒否権を行使されることは、憲法上も、慣行上もなかったことを堂々と述べた。[a,b]
■8.「昭和天皇独白録」とバイニング夫人■
フェラーズはさらに次々と手を打っていった。第2の手は昭和天皇ご自身に直接語っていただくことだった。風邪を引いて寝込まれていた昭和天皇に、戦争への関わりと思いを語ってもらい、寺崎英成ら側近たちが記録した。この記録は44年後に発見されて「昭和天皇独白録」としてセンセーションを起こした。その英語版がフェラーズの残した文庫から発見された。
フェラーズがもう一つ打った手は、皇太子にアメリカ人女性の家庭教師をつけることだった。それによって欧米の世論を軟化させようというのが、狙いだった。フェラーズが選んだエリザベス・バイニング夫人は、彼と同じクエーカー教徒であり、また夫人の児童文学者としての才能と評判を彼はよく知っていた。
バイニング夫人は4年間、皇太子の家庭教師を務め、帰国後の1952年に著した『皇太子の窓』はアメリカでベストセラーとなり、皇室に対するアメリカ人のイメージを変えるのに大きな役割を果たした。
■9.「天皇陛下を戦犯より救出したる大恩人」■
東京裁判開廷から2ヶ月過ぎた昭和21(1946)年7月、フェラーズは陸軍を退役して帰国の途についた。その際に、次のような手紙を、天皇の側近・寺崎英成に書き送った。
フェラーズはこの言葉通り、帰国後は全米各地を回って極東問題やソ連についての講演を行い、雑誌に記事を投稿した。『リーダーズ・ダイジェスト』1947年7月号には、『降伏のために戦った天皇裕仁』と題して、昭和天皇を讃えた。その中ではソ連が東洋における支配的地位を狙って、日本からの和平斡旋の依頼を握りつぶして、戦争を長引かせ、自らに最も好都合な時に対日戦を始めた事を指摘した。
1950年2月、ソ連は突如として天皇を細菌化学戦争の計画立案に関わった罪で「追加戦犯」として、国際軍事法廷で裁くことをアメリカに求めた。しかし米国は解決済みの問題として、これを黙殺した。
昭和46(1971)年2月、日本政府はフェラーズに対して、勲二等瑞宝章を贈った。その申請書にはこう書かれていた。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(121) 笹川良一(上) 獄中の東条英機に命をあきらめて国家を弁護せよと叱咤した 男
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b. JOG(122) 笹川良一(下) 東京裁判での罪なきBC級戦犯釈放に奔走
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
岡本嗣郎「陛下をお救いなさいまし―河井道とボナー・フェラ ーズ 」★★★、ホーム社、H14
東野真「昭和天皇二つの『独白録』」★、日本放送出版協会、H1
////////////おたより_///////////_/
■「昭和天皇を護った二人のキリスト者(下)」について
「じゅんどん」さんより
私は生まれたときから教会に通い、現在もクリスチャンです。神の存在を信じていますし、キリスト教こそ救いであると信じています。ただ、日本におけるキリスト教の皇室、国旗、国歌に対する態度や国家感には少なからず、いや相当違和感を感じている者でもあります。
他にも新渡戸稲造や(色々な評価があると思いますが)内村鑑三などすばらしいクリスチャンがいますが、今回、このメルマガを通して河井先生のような立派で健全な国家感を持った日本人のクリスチャンが存在したのだと言うことを再認識できたことをとても感謝しています。
それにしてもここ数年の日本のキリスト教の「国旗・国歌」に対する態度、言論は正に異常です。いつまでたっても戦前、戦中の弾圧に対する被害妄想が抜けない体質には私も相当辟易としていますが、新たな価値観を創造すべく努力したいと考えています。
■ 編集長・伊勢雅臣より
第2、第3の新渡戸稲造や河井道が登場することを期待してます。
© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.
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