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JOG(792) 昭和天皇をお育てした乃木大将

 昭和天皇:「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」


■1.「孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考える」

 日露戦争後、陸軍の大御所・山県有朋は、乃木の才幹と大功から、参謀総長に栄転させようと明治天皇に内奏したが、天皇は日を改めて、山県にこう言われた。

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 先日乃木を参謀総長にとのことであったが、乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじゃが、孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、乃木をもってすることにした。[1,p210]
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 明治天皇ご自身が若かりし頃、西郷隆盛の発案で、山岡鉄舟など武士道で鍛えられた人格者に厳しく育てられた[b]。それもあって、皇孫殿下らを立派な天皇・皇族に育てるには、乃木のような高潔な人物こそが適任だと考えられたのだろう。

 山県は後に「陛下の乃木に対する異常の御信任に感激せざるを得ぬ」としみじみ語っている。

■2.「いさをある人の教(おしえ)の親にして」

 天皇は学習院長任命の際に乃木にこう言われた。

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 おまえは二人の子供を(JOG注: 日露戦争で)失って寂しいだろうから、その代り沢山の子供を授けよう。[1,p210]
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 いかにも乃木に対する慈愛の籠もったお言葉である。さらに次のような御製(天皇の御歌)を乃木に賜った。

 いさをある人の教(おしえ)の親にしておほしたてなむやまとなでしこ

「おほしたてなむ」とは「いつくしみ育てよう」、「やまとなでしこ」とは、三人の皇孫を含む生徒らを指す。「いさをある人」とは、乃木のことだが、戦功だけでなく、武士道精神にあふれた誠忠ぶりをも指すのだろう。

 乃木はあまりの大任に軍人たる自分はとてもその任にあらずとためらったが、かくも懇切なる思し召しには辞退する由もなかった。次の歌で決心を語っている。

 身は老いぬよし疲(つか)るともすべらぎの大みめぐみにむくいざらめや
(身は老いて疲れるといえども、天皇の大き恵みに報いないわけにはいかない)

■3.「士卒と労苦をともにしていつでも第一線にあって」

「陛下の乃木に対する異常の御信任」がどこから来たのかを示すお言葉がある。明治天皇はかつて側近にこう語られた。

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 乃木は他のものと心掛けが違ってをる。多くのものは休職になるとか、予後備に編入されれば遠くで挙行する演習地にはでかけぬ。でかけてもただ後方にあるのみであるが、乃木のみは決して左様ではなく、いかなる遠い場所にでも必ず来ている。来ておるのみでなく、士卒と労苦をともにしていつでも第一線にあって視察しておる。[1,p93]
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 当時、義和団事件で大陸に派遣された乃木の部下が、分捕った馬蹄銀をひそかに私有したという事件があり、自らの直接の責任はないのに、師団長を辞職し休職を願い出ていた。その休職の間にも、かくも熱心に演習の最前線に出ていたのである。

 乃木の能力だけでなく、明治天皇は、その無私の誠忠ぶりを国軍将兵、広くは日本国民のお手本と考えられていたのだろう。

 日露戦争が勃発すると、乃木は第3軍司令官として最前線に戻ったが、それには明治天皇の深い思し召しがあった。乃木は見事にそれに応えて、旅順要塞の攻略で日本の勝利に貢献し、降将ステッセルとの仁愛と礼節にあふれた会見で、世界を感嘆させたのである。[a]

■4.「心からの御敬礼の誠を尽くされんことを」

 明治40(1907)年1月、乃木は学習院長に着任し、その4月、後に昭和天皇となられる裕仁(ひろひと)親王を学習院初等科に迎えた。その後、雍仁(やすひと)親王(後の秩父宮)、宣仁(のぶひと)親王(後の高松宮)が入学された。学習院には、そのほかにも皇族方の子弟が数多く在学していた。

 乃木は持ち前の誠忠ぶりで院長の職務に向かった。皇族方のご教育方針として、「行状よろしくない時は遠慮無く正すこと」「成績についても斟酌しないこと」「勤勉、質素にお育てすること」などを定めた。

 裕仁親王のご入学後しばらくの間、登下校の際に玄関で深々と頭を下げて、お迎えお見送りをした。裕仁親王が挙手の礼を返されると、乃木は親王を呼び止めて、こう申し上げた。

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 尊師に対されました時には、心からの御敬礼の誠を尽くされんことをひとえに懇願し奉ります。[1,p213]
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 敬礼一つに対しても、心からの誠を込めるべきだという注意である。親王は真剣にやり直しをされた。

 親王も乃木を深く敬愛されて、何かにつけて「院長閣下は、、、」と言及されるようになった。制服や靴下が破れて侍女が新品にとりかえようとすると、こう言われた。

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 院長閣下が着物の穴のあいているのを着てはいけないが、つぎのあたったのを着るのはちっとも恥じゃないとおっしゃったから、穴のあいたのにはつぎをあてておくれ。[1,p213]
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 昭和天皇は、戦後の復興の後も、つぎをあてたコートを着られていたという。

■5.「うちのおやじ」

 乃木には立派な院長官舎が用意されていたが、それを使わずに、中等科・高等科の全生徒とともに寄宿舎暮らしをした。朝は4時半頃に起き、寝具など身の回りのことはすべて自分でやった。

 その後、雨が降ろうと雪が積もろうと、寄宿舎6寮を巡視し、初夏から晩秋にかけては雑草刈りもした。朝食と昼食は生徒らとともにし、生徒らに親しく声をかけ、姿勢の悪い者には注意を与えた。

 8時からの授業では各教室を巡視。一つの教室では必ず始めから終わりまでの約1時間、後ろに厳然と立って、生徒の勉強ぶりを観察した。放課後には、自ら防具をつけて竹刀をとり、生徒に稽古をつけた。

 夕食の後、6時から10時まで生徒の自習の時間には、乃木は自室で読書をし、10時、消灯ラッパとともに、生徒と同様に床についた。赤坂の自宅に帰るのは月に1、2度であり、それ以外は、この生活を殉死の時まで、5年半続けるのである。

 陸軍大将にして伯爵という天下の名将が、こうした質素かつ献身的な生活を生徒らとともに送ったことは、多感な生徒らに多大な感化を及ぼさずにはおかなかった。

 学習院生徒は大半が華族の子弟で、ぜいたくに甘やかされて育ったものも多かったが、乃木ほどの人物が生徒とまったく同様の生活をしているのだから、不平不満の言いようがない。生徒らは一ヶ月もたたぬうちに乃木を慈父のように慕い、みな「うちのおやじ」と呼ぶようになった。

■6.生徒たちとの談話

 乃木の居室には、しばしば生徒が押しかけたが、いつも喜んで迎えた。そのような時の談話を通して、生徒に己の信ずる道を語った。

 乃木は吉田松陰の教えを、松陰の叔父にあたる玉木文之進(たまき・ぶんのしん)を通じて受けたが、松陰がさらに師としたのが山鹿素行(やまが・そこう)だった。ある時、乃木は素行の主著『中朝事実』を生徒に示して、こう語った。

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 この本の著者は山鹿素行先生というて、わしの最も欽慕(きんぼ)する先生じゃ。・・・

 さてこの書物の書名となっている『中朝』というはつまり日本国の事で、『事実』とは日本国存立の大事実で、それを正しく静観直視せしめて、皇道日本の将来を卜(ぼく、判断)したのがこの書名の根本精神じゃ。
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 その序文について、生徒たちにこう説いた。

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 人は愚かな者で幸福に馴(な)れると幸福を忘れ、富貴に馴れると富貴を忘れるものじゃ。高潔なる国土、連綿たる皇統のもとに生を受けても、その国土、その大愛に狃(な)れると自主独立すべき根本精神を忘却し、いたずらに付和雷同して卑屈な人間と堕する者が頻々(ひんぴん)として続出する。これが国家存立の一大危機というものじゃ。
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 どうじゃな、ここの中華とは中朝と同じく日本国家の事じゃ。これは決して頑迷な国粋論を主張しているものではない。

 よきをとりあしきをすてて外国(とつくに)におとらぬ国となすよしもがな

と御製にもある通り、広く知識を求め外国の美風良俗を輸入して学ぶことは国勢伸張の秘鍵(ひけん)ではあるが、それは勿論皇道日本の真価値を識り、その大精神を認識した上でのことでなければならぬのじゃ。
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■7.「世界精神と国家精神とは両立するものでありましょうか」

 田中という生徒が「世界精神と国家精神とは両立するものでありましょうか」と質問した。乃木はこう答えた。

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 うん、面白い、確かに両立するものだ。世界精神を発揚せんとするには、まず正しき国家精神を擁護熱愛せねばならない。各自の国家を完全な道義国として生長せしめることによって、始めて全人類も一大飛躍を生ずるのだ。

 日本国家を完全な道義国として生長せしめるためには、まず建国の基礎たる一君万民、君臣一如の精神を探求し、各個の品格を高め、破邪顕正(JOG注: 邪道を打ち破り、正しい道理をあきらかにすること)、救国済民(JOG注: 国を救い、民を苦しみから救済する)の大旆(たいはい、大きな旗)を世界に確立する大勇猛心を要するものじゃ。

 日本にさし昇る道義の光輝をもって世界の闇を照らさしむということは最高最大の愛国心である。この愛国の赤誠と、田中のいわゆる自主的世界精神とは究極において必ず両立するものじゃよ。[1,p232]
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「道義の光輝をもって世界の闇を照らさしむ」の一例が、降将ステッセルとの仁愛と礼節にあふれた会見で、世界を感嘆させたことだろう。乃木は当時、国際的にも広く尊敬されていた日本人の一人であった。その世界精神は、乃木の国家精神からもたらされたものであった。

 乃木が説いたこの言葉は、多感な生徒たちの胸に深い志を植えつけたであろう。裕仁親王もそのお一人だったに違いない。

■8.「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」

 明治45(1912)年7月30日、明治天皇が崩御され、9月13日の御大葬後に殉死するという覚悟を胸に秘めていた乃木は、9月10日、裕仁親王と両宮にご挨拶をした。

 乃木は裕仁親王に、これからは皇太子となり、いずれは皇位に就かれるための御学問も必要になるので、「一層の御勉学せられんことを願い奉ります」と申し上げた。さらに山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾(かんらん)の『中興鑑言(ちゅうこうかんげん)」を差し上げて、こう申し上げた。

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 これは希典が平素愛読仕(つかまつ)ります本にて、肝心のところには希典が自ら朱点を施し置きましたが、今はいまだお分り遊ばされざるべきも、御為になる本にて追々お分かり遊ばさるべく、只今のうちは折々お側の者にも読ませて、お聴きとり遊ばさるるよう献上仕り置きます。[1,p267]
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 鋭敏な裕仁親王は、いつもとは異なる様子を感じとられて、「院長閣下はどこかへ行かれるのですか」と尋ねられた。乃木は、「御大葬に参列する英国コンノート卿の見送りで、18日の学習院始業式にはお目にかかれないかも知れませぬ」と答えた。

 これが裕仁親王と乃木大将との最後の接見となった。晩年、陛下は「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」と言われている。

 昭和天皇は大東亜戦争の終戦に際し、「私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う」と言われて御聖断を下され[c]、また戦後は焦土となった日本全国を約8年半かけて御巡幸された[d]。

 ご自身の事は一切構わず、ひたすらに国家国民を思われる至誠の生き方は皇室の伝統的精神を受け継がれたものであるとともに、ご幼少の頃の乃木大将の人格的感化も大きかった。裕仁親王を立派な天皇に育てたいという明治天皇の願いを、乃木大将は渾身の誠忠を持って果たしたのである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(783) 水師営の会見 ~ 乃木将軍とステッセル将軍
 敵将に対する仁愛と礼節にあふれた武士道精神は世界に感銘を与えた。
https://note.com/jog_jp/n/nac1999fd582e?magazine_key=m2e42b5376ee9

b. JOG(775) 山岡鉄舟、若き明治天皇を諫(いさ)める
 酒に酔って殴りかかった若き明治天皇を、山岡鉄舟は体を張って諫めた。
【リンク工事中】

c.JOG(101) 鈴木貫太郎(下)
 終戦の聖断を引き出した老宰相。
https://note.com/jog_jp/n/n2a5dd052dbcc

d. JOG(136) 復興への3万3千キロ
 「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。
https://note.com/jog_jp/n/n05e5b6c07583

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 岡田幹彦『乃木希典 高貴なる明治』★★★、展転社、H13
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4886561861/japanontheg01-22/

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