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JOG(81) 松井石根大将 ~ 大アジア主義の悲劇

 南京事件当時の司令官だった松井大将は古くからの日中提携論者だった。


■1.ジャキーノ神父の感謝■

 昭和12年8月、第2次上海事変が起きた。上海の難民区で30万人のシナ人を保護していたフランスのジャキノー神父は、東京日々新聞に次のように語った。

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 日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません。食料があと二、三日分しかなく、心配していたところ、松井大将が一万円を寄贈して下され、非常に感謝しているところです。[1]
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 この「松井大将」とは、この後の南京攻略の際に、20万人以上を組織的に虐殺した責任を問われ、東京裁判で死刑に処せられた上海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将である。上海で神父に称えられた人が、続く南京では「20万人以上もの組織的虐殺をした悪魔」となるなどという事がありうるのだろうか。まさに歴史ミステリーである。

 松井大将とは本当はどのような人なのか、実際にどのような行動をとったのか、その足跡をたどってみよう。

■2.日中提携の大アジア主義■

 松井石根は貧乏士族の六男で、12歳の時に名古屋から上京し、軍人養成のための全寮制学校、成城学校に入った。その後、陸軍士官学校は2番、陸軍大学は首席で卒業した。

 参謀本部第二部長の時、張作霖爆死事件が起こり、松井はその犯人河本大作大佐を厳罰に処すべしと強く主張したが、当時台頭しつつあった革新的青年将校の威勢の中で、処罰はうやむやのうちに葬り去られた。

 松井は、軍紀にやかましい煙ったい親父として青年将校から嫌われたが、この下克上の風潮はさらに悪化し、満洲事変の勃発時に、白昼陸軍省内で永田軍務局長刺殺という前代未聞の不祥事を起こした。松井大将は軍の長老として、責任をとり、自ら退役を願い出たのである。[2,p50]

 四十余年の陸軍在職中には、10年以上も中国に在任し、孫文や、蒋介石など、多くの名士と親交を結んだ。そして、軍事はもとより、政治、経済その他あらゆる漢民族の文化を研究するにつれて、中国愛好の念を深め、次第に日中の親善提携と、アジアの復興を念願するようになった。

 特に孫文の唱えた日中提携による大アジア主義に、松井は深く共鳴し、現役の時から「大亜細亜協会」設立発起人の一人となり、退役とともに会長となって、日中和平・提携を、日本国内、および、中国で説いて回った。

 松井は孫文の第2、第3革命を陰に陽に支援し、孫文亡き後は、その遺志を継いで中国の統一と日中提携を実現しうるものは蒋介石をおいて他にない、との認識から蒋を支援した。

 昭和2年、蒋介石が北伐の途中大敗して、最大の危機にあったとき、松井は蒋を日本に呼び、時の田中義一首相に引き合わせた。この会談の結果、日本は蒋の北伐を援助し、張作霖を満洲に引き上げさせた。

 昭和11年、支那事変の前年には、反蒋介石の巨頭胡漢民らと会談し、蒋介石の南京政府と提携して、中国の統一を図るべきだと進言している。その足で南京により、蒋介石と会談して、国父孫文の「大アジア主義」の精神に帰ろうと呼びかけた。[2,p45]

■3.上海派遣軍司令官の訓示■

 しかし、蒋は日中提携よりも、国共合作を選び、昭和12年8月11日には上海停戦協定に違反して、約1万2千名の偽装保安隊を軍備禁止地域に送り込んだ。上海には当時、揚子江上流から2万2千名の日本人引揚者がいた。蒋介石は70万人の大軍を集結し、日本守備隊と居留民を脅かした。

 その2週間ほど前、通州において、婦女子を含む日本人居留民約2百名が目をくりぬかれるなど、残酷な強姦・虐殺事件があったばかりである。8月23日に在留邦人の生命財産を守るため、松井を司令官とする上海派遣軍が送り込まれた。[3,p27]

 当時、すでに予備役にあった松井が、特に上海派遣軍司令官に起用されたのは、時の杉山陸軍大臣も明言しているように、年来日中親善に尽力し、中国に知己も多いため、速かに事件を局地的に解決し、戦闘を拡大しないという政府方針の貫徹には、最もふさわしい人物であったからである。

 松井は、自分のように、真に中国を理解し、中国人を親愛する人間が出馬することが、今回の派兵で、怨恨を残さず、かえって「雨降って地固まる」を実現するのに好都合だと考えた。そこで、部下各隊にその趣旨を徹底させるために、次のような訓示を行った。

一、上海附近の戦闘は専ら我れに挑戦する敵軍の裁定を旨とし、中国官民に対しては努めて之れを宣撫愛護すること。

二、列国居留民および軍隊に累を及ぽさざることに注意し、列国官憲およびその軍隊と密に連絡し誤解なきを期すること。(原文)

 約2ヶ月の攻防で、ようやく上海を占拠し、居留民を保護しえた。この時の難民区の扱いは、ジャッキーノ神父が感謝した通りである。

■4.国際法・国際常識の通じない相手■

 蒋介石軍の戦いぶりは、およそ近代的戦争の常識や国際法をはずれたものであった。たとえば、「清野戦術」とは、退却に際して、敵軍に利用させないために民家などをすべて焼き払ってしまうものである。これは、後に南京から撤退する時にも、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が目撃・報告しているように、中国軍自体による放火略奪となって現れる。

 もうひとつは「便衣兵」で、中国兵が農民に偽装して、日本兵を背後から襲うというゲリラ戦法である。国際法では正規兵はそれと分かる軍服を着用しなければならない。一般市民を戦闘の巻き添えにさせないためのルールである。「便衣兵」とは、このルールを破り、人民の背後に隠れて攻撃をする、という不法な「禁じ手」であった。

 さらに日本軍を驚かせたのは、「督戦隊」であった。これは戦意のない兵隊に対して、後ろから機関銃掃射を浴びせかけて、前進して戦わなければ、後ろから撃たれるだけ、という状況に兵を追込むものである。これでは、兵は降伏もできず、死に物狂いで戦うしかない。

■5.部下を見捨てて逃亡した唐生智将軍■

 南京を根拠とする中国軍は、再び、その付近に大軍を集めつつあり、江南地方全体の治安を維持するために、日本軍は南京攻略を決意した。

 松井は、南京攻略を全軍に伝えるに際し、「南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であるゆえに、慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ。特に敵軍といえども抗戦意思を失いたる者および一般官民に対しては、寛容慈悲の態度を取り、これを宣撫愛護せよ」と命じた。  

 特に松井は南京郊外にある孫文の慰霊廟、中山陵を戦火から守ることを厳命し、その保全に成功した。

 12月9日に、松井は平和理に南京開城を願って、降伏勧告を行ったが、すでに蒋介石や他の将軍達は南京を脱出していた。南京防衛を命ぜられた唐生智将軍も、降伏勧告を無視して、12日、部下と民衆を置去りにしたまま逃亡した。

 正規に降伏する機会も与えられず、見捨てられた将兵達は、パニックに陥って、城壁の前で大勢が折り重なって圧死したり、数千人の便衣兵が市民を殺してその衣服を奪い,難民区に紛れ込んだ。

 南京ではドイツ人ラーベを委員長とする民間人有志による国際委員会が、安全地帯を設け、難民区としていた。ラーベは、日本軍に対して、「貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事な遣り方に感謝するため、我々は筆をとっております。」と謝意を表明している[3,p386]。

 しかし、清野戦術と便衣兵とで疲弊していた日本軍の一部に、「若干の暴行・略奪事件があった」と憲兵隊から聞かされた松井は、必要以外の部隊を城外に出させた。18日、中国軍将兵をもあわせ祀る慰霊祭を執り行い、「これが日中和平の基調であり、自分の奉ずる大アジア主義の精神である」と声涙くだる訓示を行った。

 日本軍により治安が回復すると、民衆も続々と南京に戻り始め、屋台も出るなど、市はもとの活況を取り戻していった。12月24日から、1月6日まで続いた住民登録では、5万人の人口増加が記録されている。[3,p293]

■6.興亜観音の建立■

 上海戦から、南京占領までに、日本軍の戦死は2万1,300、戦傷病者は5万余であった。松井大将は帰還後、昭和14年に日中戦没者の血の沁みた土を取り寄せ、これをもって熱海・伊豆山の寓居に興亜観音を建立した。この事変を転機として、両民族が親和し、今事変の犠牲者が東洋平和の礎石となる事を願って、朝夕、読経三昧の生活を送っていた。

 昭和21年、東京裁判が開かれ、松井大将はここから引き立てられ、聞いたこともない南京での「20万人以上の虐殺」の責任者として絞首刑に処せられたのである。その思いはいかばかりであったろうか。

■リンク
JOG(43) 孫文と日本の志士達
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■参考

  1.  東京裁判・松井石根被告弁護側最終弁論

  2. 「南京事件の総括」、田中正明、謙光社、S63.3

  3. 「『南京虐殺』の徹底検証」、東中野修道、展転社、H10.8

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