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JOG(652) 沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(下)

米軍侵攻を目前にして島民の北部疎開と食糧確保に二人の島守は全力をあげた。

(前号より続きます)


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■1.「この長官は自分たちを捨てていかない」

 島田は第27代沖縄県知事として、昭和20(1945)年1月31日、着任した。着任の挨拶では、相次ぐ空襲下での職員の苦労を労った後、

 沖縄県は全国民の耳目を集めている。敵機の空襲を最初に受け、戦火の中を戦ったのだから、沖縄県から率先垂範し、全国民の士気を高揚させよう。無理な注文かもしれないが、先ず元気にやれ! 明朗にやろうじゃないか。[1,p157]

 職員たちは、この長官は自分たちを捨てていかない、この人になら最後までついていける、と思った。

 着任数日後に島田を訪ねた地元の有力者が「前知事は逃げてけしからん。知事さんも大変ですね」と言うと、島田はこう答えた。

 人間誰でも命は惜しいですから、仕方がないですね。私だって死ぬのは怖いですよ。しかし、それよりも卑怯者といわれるのは、もっと怖い。私が来なければ、だれかが来ないといけなかった・・・。人間には運というものがあってね・・・[1,p160]

 ちなみに、前知事は更迭時には「現地軍から要請のあった県内疎開を協議する」との名目で上京中で、そのまま香川県知事に転出し、昭和59(1984)年に86歳で亡くなるまで、二度と沖縄の土を踏むことはなかった。「卑怯者」と呼ばれることを恐れながら、長い余生を生き続けたのかもしれない。

■2.2ヶ月で9万人の疎開計画

 着任8日目に、第32軍の長勇(ちょう・いさむ)参謀長が県庁に島田を訪ねた。牛島司令官の要請で敢然と決戦前の沖縄に赴任した島田に対して、長参謀長は、前知事に対するのとはうって変わって、礼を尽くした。

 長からは、敵の上陸が近々に予測されていることから、老婦女子の北部山岳地帯への疎開を急ぐこと、住民の6ヶ月分の食糧を確保することの2点を要請された。

 二つとも一人でも多くの県民を救うための緊急課題であり、島田の動きは速かった。その日の午後から緊急部課長会議を招集して、対応策を協議した。そして内政や経済に関わる平時の業務を全面的に停止し、全職員を疎開と食糧確保の二つの業務に専念させることとした。

 まず疎開に関しては、北部の国頭(くにかみ)郡の8市町村に、2月中に4万人を移動させ、学校、集落事務所などの既設建物に収容する。また新たな収容施設を建設し、3月には5万人強を移す。

 そのために県土木課員を総動員し、移動する住民になじみの深い教職員の一部を疎開の第一線に配置する、という綿密な計画を立てた。それまでに疎開していた県民を加えると、北部への疎開者は15万人に上る。当時の秘書官・小渡信一は、こう回想している。[1,p166]

 行政手腕は鮮やかというほかなかったですねえ。・・・

 会議は必ず自分で取り仕切り、しゃべり過ぎ、冗漫な意見はピシャリと抑え、幅広い意見を引き出された。結論が出た、となると、すぐ次の議題ですよ。切羽詰まった状況もあって、時間は大切にされました。

 長官が来られて一番喜んだのは、警察部長の荒井さんだったのではないでしょうか。それまで何もかも背負わされ、一人苦しんでおられましたから、会議の途中、お二人が額を寄せ、和やかに打ち合わせされるのを見て、我々は「ああ、良かった」と心底、うれしくなったものです。

 島田知事と荒井警察部長の二人を中心に、県庁職員が一つにまとまって、一人でも多くの県民を救うための奮闘が始まったのである。

■3.疎開を渋る県民の説得

 島田は疎開を促進するため、住民が疎開に積極的でない所へは激務の間を縫って、国民学校を会場に自ら疎開の需要性を説いた。
小渡秘書官は、こう語っている。[1,p187]

 当時の沖縄は官尊民卑の風潮が強かったから、勅任官(JOG注:天皇から任命される官僚)の知事といえば天皇陛下も同様です。その地方長官が村へ来るのですから、住民は会場に詰めかけましたねえ。おまけに長官の話がまた易しくて、気軽でしょ。みんないっぺんに好きになった。

 講演が済むと民家の実情視察である。あらかじめ訪問先は決めてあるのだが、「小渡君、ちょっと、あの家にも寄っていこうや」と予定外の家にも入っていき、話し込む。疎開を渋るのは、農地や家畜のことを気にしている場合が多いのだが、その様子を聞いてやったうえで、「それでも、危ないから疎開した方がいいよ」と説得する。

 飛び込まれた家はあまりの気安さからまさか知事とは思わず、後から分かってびっくり仰天ということが度々あった。

 こうした努力の甲斐あって、わずか2ヶ月で9万人強の疎開という大仕事が進んだ。北部への疎開の様子を、当時の担当者はこう記している。[1,p211]

 中、南部から北へ北へと戦火を避けて移動する年寄り、女、子供の群れは、西海岸の名護街道と東海岸の金武(きん)街道を埋めた。長々と延び切った人々の列は、昼となく夜となく北へ動いた。

 沖縄千年史のどのページにも、これほどもの悲しい風景は見当たらなかっただろう。

■4.「どうか、沖縄県民を助けてください」

「6ヶ月分の食糧確保」も難題だった。当時の保有米は県民消費の3ヶ月分がやっとという状況だったので、特使を台湾に派遣して、米の移入を交渉させた。

 しかし、台湾の方でも米軍の侵攻が予想されることから、沖縄に回す米はない、と交渉は難航した。特使からの報告を受けた島田は、2月27日頃、自ら台湾に飛んで交渉に入った。当時、制海権、制空権とも敵に奪われている中で、危険を冒しての出馬であった。

 島田には台湾でもその人柄を慕う人がいて、総督府からの払い下げについて何度も援護射撃をしてくれ、そのお陰で3千石の入手ができた。

 しかし、輸送船の手当がつかない。総督府の交通局に嘆願した所、前日、同じく食糧難で困っている台湾東部の花蓮港行きの船便を手配した所だが、そちらから譲ってもらうよう頼んではどうか、という答えだった。

 相手は、花蓮港庁警務課の江口貞吉課員だった。島田は直接、江口と自ら電話でかけあった。相手が県知事と知って、平課員の江口も驚いたろう。しかし、島田は地位の上下も関係なく、沖縄県の窮状を訴え、「江口さん、どうか、沖縄県民を助けてください」と頼み込んだ。

 江口は「せっかく都合した船便なのに」と全身の力が抜け落ちるような落胆を味わいながらも、「沖縄の窮状に比べれば、花蓮港の事情はまだ良い方ではないか」と思い直して、「それでは致し方ありません。どうぞ大事にお持ち帰りください。ご苦労の程お察し申し上げます」と答えた。

 島田の真摯な姿勢とそれに応えた江口の善意により、3千石の米は無事、那覇港に届けられた。警察官たちが徹夜で米を船から降ろし、県庁構内にあった武道の練習所・武徳殿に運び込まれた。

 道場だけで100坪もある広い建物に天井近くまで米が積み上げられ、それを軍用トラックで各地に積み出されていった。この米によって、多くの県民が飢餓から救われることになる。

■5.「敵さん、なかなか鮮やかだね」

 3月23日朝から、米軍上陸の前の空襲が始まった。米艦載機の延べ千数百機による執拗な大空襲が全島を覆った。さわやかな南の島の朝は、たちまち修羅場と化した。

 急ぎ登庁した警察部員たちは装備を調え、県庁舎前の緊急用避難壕に待機した。友軍の打ち上げた高射砲の弾片が、びゅんびゅんと音を立てて落下してくる。沖縄各地が空襲にされされているという情報が次々と寄せられた。

「やあ、皆、元気だね。敵さん、なかなか鮮やかだね」と、鉄カブトをかぶった島田が姿を現した。知事の動じない姿に、迎える警察部員たちの顔も和んだ。

 翌24日、戦艦以下30隻の米機動部隊が早朝から本島南部の沖合に姿を現し、艦砲射撃を始めた。以後、上陸前1週間にわたって、合計219隻が5100トンもの砲弾を美しい南の島に叩き込んだ。まさしく「鉄の暴風」であった。

 島田は職員を数キロ離れたいくつかの壕に分散させ、そこから老幼婦女子の北部疎開、食糧の配給、そして避難壕の整備・構築の指揮をとった。

■6.壕内の生活

 島田の入っていた壕は150メートルほどの坑道のような形で、その中に百数十人が入っていた。湿度が高いために、ちょっと動くと汗みどろになる。

 その中で、壕を広げるために、掘った土をザルの手渡しリレーで外に運び出す作業が行われたのだが、島田は「よしっ、僕もやろう」と、リレーに加わって、泥んこになってザル渡しをした。そして「壕では運動不足になるから、これは健康のために良い」と言って、皆が気を使わないように務めた。

 食事は共同炊飯で、おにぎりとおつゆに決まっていたが、署や村の人々が近くの田んぼからウナギやフナをとってきて知事にもう一品つけようとしたが、島田は決まって少しだけ頂くと、あとは「怪我をしている人にあげて下さい」と回してしまった。伝令に出て怪我をしていた人が、壕のあちこちで苦しんでいたのである。

■7.避難民を救え

 4月1日に上陸を開始した米軍は、日本軍の頑強な抵抗に遭いながらもじりじりと南下を続け、24日には首里・那覇地区からの非戦闘員に東南部への非難命令が出された。

 南下する避難民の受入体制を整備すべく、27日に南部の市町村長17名と警察署長4名、随行者を含め100人近い人間が壕の中の70畳敷きほどの大広間に集まった。皆、道中の爆撃を避けるために時には地面に這いつくばったせいで、泥まみれの姿だった。

 島田は「食糧も壕も不十分なことは万々承知しているが、生死を共にしている今こそ、同胞愛を発揮して貰いたい」と頭を下げた。

 また「戦いがいかに激しく、また長びこうとも、住民を飢えさせることは行政担当者として最大の恥」と強調し、芋の植え付けや麦、大豆の収穫を夜間、月明りを利用して行うよう指示した。

 会議は6時頃に終わり、市町村長らは艦砲射撃の途切れるのを狙いすまして、それぞれの自分の市町村に帰って行った。住民保護の重責を担って、身の危険をものともせずに戻って行く姿を、島田と荒井は目を潤ませながら見送った。

 島田の指示は南部の町村で実行に移された。農民は一層の食糧増産を申し合わせると共に、「避難民はどの畑からでも作物を自由に取って食べて良い」と各村で決議した。これによって救われた避難民も多かったと思われる。

■8.島守の塔

 5月末には第32軍は首里戦線から撤退し、最後の抵抗拠点である沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)へ移動した。島田は牛島軍司令官と最期を共にすることを決意し、6月8日には県庁を解散して、職員たちを「生きて沖縄再建のために尽くしなさい」と脱出を命じた。

 親しくしていた新聞記者が別れの挨拶に来て、「知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、出られてもよいのではありませんか」と小声で言った。すると、島田はキッと顔を上げて答えた。「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ?」

 軍司令官が敗戦と将兵戦死の責任をとって自決しなければならないように、幾多の県民を死なせた地方長官も、その責めを負わなければならない、というのが、島田の覚悟だった。

 牛島軍司令官は6月23日、摩文仁の軍司令部壕で自決し、沖縄戦の組織的戦闘は終息した。その数日後、荒井はアメーバ赤痢で亡くなり、島田は近くの海岸の自然壕でピストルで自決したと見られている。

 島田や荒井としては、県民を十分に保護できなかったとの思いであろうが、20万人にのぼる県内外への疎開、台湾米の移入などで多くの県民が命を救われたのは事実である。

 摩文仁の丘には、50もの慰霊塔、慰霊碑が林立しているが、その中でいち早く建てられたのが、島田、荒井を初めとする戦没県職員458柱を合祀する「島守の塔」である。

 沖縄戦の6年後、傷跡がまだ生々しい昭和26(1951)年に県民の浄財を集めて建立されたもので、島田、荒井を筆頭とする県職員への沖縄県民の感謝の気持ちが込められている。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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c. JOG(644)「沖縄県民斯ク戦へり」(下)~「県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ」との祈り
 大田實中将の電文に感銘した多くの人々が、沖縄の為に尽くした

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c. 「荒井退造」、歴史人物学習館


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』★★、中公文庫、H18


■「沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(下)」に寄せられたおたより

■GBさんより

 私は田舎の下っ端公務員です。役所内のいい加減なお金の使い方、知らん顔していていいのか、と問題意識を持ちながらも、自分の立場も守りたい、と悩んでいました。しかし・・なんとも小さい悩みだと・・恥ずかしく思います。

 誰かのため己を捨てて激しくまっすぐに生きる。あの時代の人々の頑張りに目頭があつくなりました。

 これからも、歴史に埋もれたスケールの大きな人を発掘してください。

■豊さんより

 島田知事は当時の内務大臣から「その志、その行動、真に官吏の亀鑑と言うべし」とたたえられた真に傑出した官僚であり、小生の大いに尊敬する人物です。

 今回の記事を読んでも人間の真価は平常時ではなかなか分からないもので、非常時にあって初めて本音が見えると言う事を思い知らされます。

 高位高官の人間が必ずしもその職責をまっとうせず、我先に戦線を離脱したケースは多い。エリートと呼ばれそれなりの敬意と待遇を受けながら肝心の所で卑劣な人間性を暴露した唾棄すべき人間の多い中で島田さんのような人の存在は正に一服の清涼剤です。

 押し並べて戦前、戦中の高位高官には後世の参考となる人は残念ながら少ない。このメルマガでは是非島田知事のような自らを犠牲にしても職責を果たし、現在では忘れられた人々を積極的に紹介して頂きたいと考えます。

 日本人も捨てたものではないと思いたいのは私だけではないでしょうから。

■編集長・伊勢雅臣より

 島田知事のような高潔な人物をすべて消し去ってきたところに、戦後教育の欠陥があります。


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