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JOG(1147) 楠木正成公と「和の国」の根っこ

 楠木正成公が示した「和の国」の根っこが、我が国の歴史を変えた。


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■1.「有為の人物を動かさずにはいない」

 正月休みに大阪府南河内郡の千早城跡に登ってみた。後醍醐天皇が隠岐に流された後、元弘2(1332)年9月に楠木正成が挙兵した山城である。当時の世の乱れた様は、歴史学者・植村清二氏によれば、以下のようであった。

 一般に諸国の御家人の生活が窮迫しているのに反して、北条氏の一族は権力と富とを独占して、羨望と不平とを招き、それでいながら彼ら自身の政治は公正を失い、その実力は衰弱しつつあった。その権威は失われ、民心は離反した。この人民の動揺と革命への期待は、有為の人物を動かさずにはいない。[植村,p46]

 まさにこの「有為の人物」として立ち上がったのが、正成であった。正成は、千人足らずと言われる軍勢に次のように呼びかけた。

 この城(千早城)において二年間は戦おう。そうすれば、そのうちに高時(鎌倉幕府の執権・北条高時)に背く者はいくらでも出て来るだろう。[家村,p83]

 正成の見通しは、わずか半年で実現した。この山城に幕府の兵数万を引きつけている間に、後醍醐天皇は隠岐を脱出され、鳥取の船上山から倒幕の綸旨を出された。それに応えた新田義貞、足利高氏(後の尊氏)らが叛旗を翻して、鎌倉幕府は1か月のうちに滅びてしまう。

■2.領民たちに慕われていた正成公

 この山城にたまたま裏道から登ったのだが、狭い急峻な坂道で高さは40階分ほど、高層ビルの屋上まで階段で登った計算となる。翌日には膝がガタガタになっていた。

 この山城に幕府軍数万が押し寄せたが、狭い山道で数人も横に並べば一杯になってしまうので、何万押し寄せようが同じ事だ。大石や大木を上から落として、死者累々となったという。正成の天才的な軍略家ぶりが、よく分かった。

 それと同時に思ったのは、急峻な山城の頂上に立てこもった正成たちに、食料を運び入れた村人たちの心意気である。一人一日3合の米を食べるとして、千人6か月では400合の米俵で1350俵ほどにもなる。それだけの量を、軍兵とともに領民たちも急峻な間道を登って補給したのだろう。それほどまでに正成公は領民から慕われていたのである。

 正成公がいかに「和」の政治を行って領民から慕われていたかは、いくつかの逸話から推察することができる。正成公は摂津・河内の両国では所々に池を掘らせて多くの新田を開発した。種子を百分の一だけ利息をとって貸し与え、翌年には米の三十分の一だけ税として納めさせた。両国には諸国から農民が流入して、人口が急増した。[家村, p230]

 また、湊川の戦いでの正成公の最期を知った領民たちは、まるで家族が亡くなったように嘆き悲しんだ、という。[産経,p255]

 正成公の領民を思いやる政治が、領民の敬慕を呼んだに違いない。そうした領民の信頼があったからこそ、正成の死後も、正行、正儀、正勝と楠木一族は三代にわたって千早城を居城とし、60年もの間、領民たちに支えられて戦い続ける事ができたのだろう。

■3.「郎従は我を頼み、我は郎従を頼みとしてこそ」

「和」を通じた勁(つよ)さは、正成の軍勢にも見られる。正成が湊川の戦いに向かう前に、息子の正行(まさつら)を故郷に帰す際、こう言い聞かせたと伝えられている。

 郎従は我を頼み、我は郎従を頼みとしてこそ、大君の御大事にもしっかり応じられるのであるぞ。[家村,p212]

 自軍の中に「和」を保とうとすれば、厳しい軍律も必要である。楠木一族である和田和泉守の弟・小車妻(おぐるめの)新三郎(正成の妹の子)は、敵の城を攻めている陣中に遊女を呼び寄せて遊んだ。これを聞いた正成は和泉守の胸中を尋ねた。和泉守は「一族として面目ない」として、親三郎の死罪を申し出た。正成は、涙を流しながら語った。

 通常の法であれば、どうしてそこまで厳しくするのかと言いたいところだが、ほんの少しであっても軍法を犯すことは、味方の敗北の発端であり、国を亡ぼす根元であれば、一人の親類を助けて万人を不幸にさせることがあってはならない。[家村,p183]

 長期の籠城で大軍が寄せてきても、指導者がこういう姿勢を見せていたからこそ、裏切り者が出る恐れはなかったのだろう。

■4.正成が実践した「和の国」の原則

 正成の領民や郎従たちの統率ぶりを見ると、まさに「和の国」の原則をそのまま実施していたことが分かる。「和の国」の建国宣言に相当するものが、神武天皇が即位の際に「天地四方、八紘(八方)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」と言われた言葉である。

 人々が「家族のように仲よく」暮らすために必要なことは、相互信頼である。たとえ家中に争いはなくとも、対立をかかえたままの「冷戦」や、独裁的な家長のものでの「奴隷の平和」であってはならない。互いに信じ合い、支え合うのが真の家族だ。

 そう考えると、領民たちが正成の死を「まるで家族が亡くなったように嘆き悲しんだ」り、また一族郎党の間で「郎従は我を頼み、我は郎従を頼」む様を想像すると、神武天皇の言われる「一つ屋根の下の大家族のように仲よく」が実現していたように思われる。

 その「和」があってこそ、数万の敵に囲まれても領民たちから食料補給を受けつつ山城に立て籠もったり、一族郎党揃って60年も戦い続ける勁さを発揮できたのである。

■5.尊氏との和睦を勧めた正成公

 正成公は、九州から大軍を率いて襲来した足利尊氏・直義兄弟と死闘を演じて、ついには最期を迎える。勝ち目のない戦いにも、天皇の命令通り死地に赴く正成公の「死に様」は「忠君愛国」の鑑として戦前は讃えられ、戦後は軍国主義の象徴として忌避されてきたが、それは正成公の実像なのだろうか?『梅松論』によれば、義貞との対立により朝敵とされて九州に落ちた足利尊氏との和睦を、正成公は天皇に勧めた。

 楠木正成が奏聞していうには、義貞を誅伐して尊氏を召し帰し、君臣の和睦をはからるべきで、その使者は正成に勤仕せしめられたいと申し上げたので、不思議なことをいうものだとて一同は嘲弄した。[村田,p82]

 足利尊氏は源氏の正統として、全国の武士に声望があった。尊皇の心も厚かった。この尊氏が後醍醐天皇のもとで幕府を開くことが、乱世を鎮める唯一の道だと、正成公は読んでいたのではないか。

 しかし、公家たちはこの献策を嘲弄した。彼らは、あまりにあっけなく幕府を打倒し、また尊氏を九州に撃退しえた事に奢っていたのだ。その尊氏が弟・直義とともに数万の大軍を率いて京に迫ってきた際に、正成公は命ぜられて、自身はわずか700余騎を率いて、新田義貞の軍とともに戦いを挑んだ。

■6.「生を替へて、この本懐を遂げん」

 小説家の大佛次郎氏は、この時の正成公の心境をこう推し量る。

 太平記の楠公の湊川合戦のくだりに、『楠(くすのき)京を出でしより世の中の事、今はこれまでと思う所存有ければ』と正成の心中に戦局に対して絶望の感情があったように書いているのは、私は正成の性格として有り得ぬことだと思う。[大佛,p406]

 

夏の午前十時から午後四時までの長時間を一歩も退かずに戦場を馳めぐったという壮烈さは、決して『今は世の中のこと是まで』と信じた人間の、絶望の苦汁を含んだ仕事ではない」[大佛,p408]

 多くの研究者、歴史家も同様の疑問を持って、次のような説を述べている。

・「湊川では正成は、足利家の強硬派、直義さえ討ち取れば、尊氏は後醍醐天皇と和睦すると考えたと思います。だからこそ小勢で突撃を繰り返す戦をした」[産経,p394]

・全精力を発揮し尽くした縦横無尽の戦いで敵を六時間釘付けにし、この間に新田勢を戦場から京へと逃れさせた。[家村,p14]

・「足利軍の強大さを知らせて建武政権の公家らを覚醒させ、尊氏との妥協に動かすことだ」[産経,p182] 

 この3つの説は、対立するものではない。尊氏に対しては強硬派・直義を倒して和睦をさせやすくし、官軍側として新田の軍勢を温存してまだまだ侮れない力がある事を見せつけ、奢った公家たちには、足利軍の強大さを知らせる。特に、頼みの綱の正成公自身が敗死したと聞けば、彼らも震いあがるだろう。 

 自分たちの生命を捧げて、和睦への可能性を開くために6時間も死力を尽くして戦った正成公は、舎弟・正季に最後の存念を聞く。

 正季からからと打ち笑ひて、「ただ七生までも同じ人間に生まれて、朝敵をほろぼさばやとこそ存じ候へ」と申しければ、正成よにも心よげなる気色(けしき)にて、「罪業深き悪念なれども、我も左様に思ふなり。いざさらば、同じく生を替へて、この本懐を遂げん」と契って、兄弟ともに差し違へて、、、(『太平記』)

 この明るさは、「絶望」の果ての死ではなく、今生において成すべき事を精一杯成し遂げ、「生を替へて、この本懐を遂げん」とさらなる報国を目指す人物の心境だろう。

■7.「罪業深き悪念なれども」

 この「罪業深き悪念なれども」という言葉を、皇學館大学の松浦光修教授は、次のように説明している。

 正成公は仏教への造詣も深かった。仏教では極楽浄土に生まれ変わるために念仏を唱え、善行を積め、と教える。

 それにもかかわらず、「私たちは”救い"はいらない。私たちは何度でも、この迷いの世界である"人間"に立ち返り、敵と戦い続けたい」と、言っているわけです。・・・死んで楽な世界に往こう・・・などという気は、楠公兄弟には、さらさらありません。[松浦]

 極楽往生までも拒否する姿勢は、仏教的な死生観から見れば、「罪業深き悪念」であった。しかし、先祖は草葉の陰で子孫を見守ると考える「和の国」の死生観から見れば、「迷いの世界」に苦しむ民を残して、自分だけ極楽へ往って楽をしたい、というのは一種の利己心だろう。

 そんな利己心を捨てて、この「迷いの世界」に七たびも生まれ変わり、「朝敵をほろぼさばや」と誓う。「朝敵」とは「民安かれ」と祈る天皇の大御心の実現を阻害する人々である。その朝敵を滅ぼして、この「迷いの世界」を、民が安寧に暮らせる「和の国」にしたいと楠木兄弟は誓ったのである。 

 この意味で正成こそは「尊皇忠臣」の鑑であった。「尊皇」とは天皇の「民安かれ」と祈る大御心に沿い奉ることであり、「忠臣」とは、その大御心に仕え奉らんと志す人物のことである。

■8.「日本の国民がおのれの心の理想を人格化し、金剛石のように結晶させたもの」

 こうした正成公の生き様・死に様は、『太平記』などを通じて、その後の多くの日本人の心に深く太い「根っこ」を張った。

 徳川家康の9男、尾張藩の初代藩主となった徳川義直は「王命に依って催さるる事」という言葉を『藩訓秘伝の碑』に残している。これは朝廷と幕府が対立することになったら、朝廷側につけ、という尊皇精神が込められているとされる。[産経,p370] 

 その義直の甥、水戸藩二代目藩主・徳川光圀(みつくに、水戸黄門)は『大日本史』を編纂し、「我が主君は天子なり。今将軍は我が宗室なり(我々の主君は天皇であり、将軍は親戚頭である)」との言葉を残した。

 光圀は正成の自刃の地、今日の湊川神社境内に「嗚呼(ああ)忠臣楠子之墓」を建て、幕末には吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、真木保臣、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文など、多くの志士たちが参拝した。また幕末のベストセラー、頼山陽の『日本外史』は「勤王の功は、われ楠氏を以て第一となす」と断言して、人々の尊皇心を燃え上がらせた。

 こうして正成公の生き方を「根っこ」として力を得た先人たちが明治維新をもたらした。後醍醐天皇の民の安寧を図るための建武中興の理想は、明治維新によって実現された。大佛次郎氏は、こう語っている。

 楠公こそは、日本の国民がおのれの心の理想を人格化し、金剛石のように結晶させたものではなかったか?・・・その響は、一度、地下に睡(ねむ)る。・・・睡らして貯えて置いて、後の子孫に贈ったのである。維新の折の開花。あの百花練乱の素晴らしい目醒めがそれである。[大佛,p375]

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 家村和幸『真説 楠木正成の生涯』★★★、H29、宝島社新書http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4800270928/japanontheg01-22/

2. 植村清二『楠木正成』★★★、中公文庫、H1http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4122015871/japanontheg01-22/

3. 大佛次郎『大楠公 楠木正成』★★★、徳間文庫、H2

4. 久保田収『建武中興―後醍醐天皇の理想と忠臣たちの活躍』★★★、明成社、H16

5. 産経新聞取材班『教科書が教えない楠木正成』★★★、産経NF文庫、R01

6. 童門冬二『楠木正成』★★★、致知出版社、H23

7. 松浦光修「楠木正成と日本人のこころ」『祖国と青年』H20.27.村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』、講談社、S50





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