JOG(1343) 林子平 ~ 北方防備の先覚者
「日本の危機を救うために罪人になるのなら、それでもいいのではないか」と、禁じられた『海国兵談』を世に問うた。
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■1.「本を出して、自分たちがどれほど無防備かを、広く世に知らせるのだ」
江戸中期の安永4(1775)年、まだ日本が鎖国中の頃、仙台藩士の林子平(しへい)は長崎奉行の役人に混じって、秘かにオランダ船の検分に紛れ込ませて貰いました。艀(はしけ)で近づくと、船体が崖のようにそそり立っています。梯子(はしご)で甲板に上ると、今度は目もくらむような高さです。
人の背丈ほどもある大砲が、左右に三門づつ並んでいます。「弾はどれほど飛ぶのだろうか?」と通訳を通して聞いて見ると、カピタンと呼ばれた船長は、茶色のヒゲを撫でながら、長崎の港を見回し、山の中腹にある寺社の大屋根を指した。「あのくらいなら軽く破壊できるそうです」と通訳。
オランダ人がその気になったら、長崎の町など、ひとたまりもない。「ロシアの船も、同じような大砲を持っているのか、聞いてくれ」との子平の問いを通訳が訳すと、カピタンは、もちろんだと言わんばかりに深くうなずきました。
子平は総毛立つ思いがしました。こんな大砲を備えた船が、蝦夷地の沿岸に近づけば、防ぐ方法はまったくない。子平は3年前に蝦夷地で見かけたロシア船を思い出しました。
江戸幕府がスペインやポルトガルの来航を禁じた140年ほど前、日本は両国を追い出すだけの軍事力を持っていました。火縄銃の技術においても生産量にしても、世界の最先端を走っていました。しかし、鎖国の下での泰平の世が続き、戦争ばかりしていた西洋諸国とは軍事技術において、大きな差が開いてしまったのです。
しかし、今からでも、日本人が本気になれば鎖国による遅れなど、かならず取り戻せるはずだ、と子平は考えました。通訳に「西洋並みの大砲を、日本でも作らねばなるまいな」と言うと、彼は顔を曇らせて答えました。「それは、なんとしても作らねばなりますまい。しかし、今のままでは無理です」
通訳が言うには、大砲の開発には膨大な金もかかるだけに、まずは幕府が本腰を入れ、諸藩にも号令をかけ、国を挙げて取りかからなければならないという。「そこまでわかっていて、なぜ奉行所から江戸に、この危機を上申せんのだ」と子平が咎めるように言うと、
長崎奉行の柘植は、子平を長崎に呼び、こっそりオランダ船の検分に紛れ込ませてくれた人物ですが、その柘植にしても、江戸に危機を上申するような事はすまい、と言うのです。「本を出そう。本を出して、自分たちがどれほど無防備かを、広く世に知らせるのだ」 子平がそう決意したのは、この時でした。
■2.ロシアの野心を警告した「はんべんごろう」の手紙
子平が長崎に来たのは、「はんべんごろう事件」の真相を調べたいと思ったからでした。4年前、土佐の港に西洋船が乗り付け、「はんべんごろう」という人物が、無理矢理、長崎出島にあるオランダ商館宛ての横文字の手紙を置いて、ふたたび出港していきました。
その手紙は、土佐藩から幕府に届けられ、幕府から長崎出島のオランダ商館に送られました。「はんべんごろう」とは、本名フォン・ベニョヴスキーのオランダ語読みです。ハンガリー生まれで、ポーランド人の対ロシア抵抗組織に入っていましたが、ロシアの捕虜となり、カムチャッカ半島に流されました。しかし、現地で反乱を起こし、小型の船を乗っ取って、脱出したのでした。
はんべんごろうの手紙は、ロシアの野心を警告したものでした。ロシアが蝦夷地を我が物にしようと狙っているというのです。ロシアが松前近辺を占拠するために、千島列島に要塞を築いているという情報を含んでいました。
■3.アイヌに武器を与え、反乱をそそのかすロシア
その時、子平はすでに35歳でしたが、医者の兄の家で部屋住みの身分でした。兄に長崎に行かせてくれと頼みましたが、そんな金はないと、聞いてくれません。それなら、蝦夷地へ行こうと、子平は兄の薬箱から旅費代わりに薬を持ち出して、一人、北に向けて出奔しました。
子平は蝦夷地南端の松前藩の本拠地、松前まで行き、薬の一部を換金して、アイヌとの交易に出かける船に潜(ひそ)ませて貰いました。船は北端の宗谷岬近くまで行きました。ここで海産物をアイヌから買うのですが、近海では昆布やホタテを採り尽くしてしまい、不漁が続いています。
交易船は、ここでアイヌの男たちを大勢集めて、千島列島までひと月近くかけて連れて行き、そこで働かせるといいます。船出の際には、家族が集まって、連れて行かれる父親や夫を悲しそうな目で遠巻きに見守っていました。 子平は現地に残り、持参した薬で病気となったアイヌの子供たちを治してやって感謝され、アイヌの家に出入りするようになりました。
交易船の和人商人にロシアのことを聞いてみると、苦々しい顔でこう答えました。
千島や一部の海岸沿いでは、もはやロシア人の上陸は珍しくないといいます。ロシア人は砂糖や酒や装飾品を持ち込んで、アイヌを慰撫していました。時には武器を与えて、松前藩に反旗をひるがえすよう、そそのかしているともいいます。だが松前藩ではロシアの南下を案じつつも、何の対策も取ろうとしていません。
子平は、この状況を広く世に訴えて、アイヌの惨状を知らしめ、ロシアの南下を警告しなければならない、と考えました。
夏の終わりに、千島に行っていた交易船も戻り、子平もそれに乗って松前に戻ることにしました。その船上で、子平はロシア船を見かけました。はるか遠くを航行しながらも、その大きさに圧倒されました。こんな軍艦が襲ってきたら、到底勝ち目はありません。
こうした経験から、西洋の船をもっと知ろうと、冒頭に紹介したように、長崎港でオランダ船に乗り込んだのです。
■4.子平『海国兵談』での訴え
天明5(1785)年、48歳になっていた子平は『三国通覧図説』を出版しました。三国とは、蝦夷、琉球、朝鮮で、それぞれの地図と、さらに南の小笠原諸島の図を入れて、東西南北の日本の国境を示した地図集でした。子平が蝦夷地や長崎で調べた三国の地理や気候風土などの解説もついています。
日本国内の地図はそれまでもいろいろ出ていましたが、周辺諸国との関係を表した地図は初めてでした。国境防備の基礎は地図を描くことです。
『三国通覧図説』は評判となり、その収入で子平は、3年前から書き始めていた『海国兵談』の出版準備を進めました。「海国」とは、日本を「海に囲まれた国」と捉え、その防備はまず海戦への備えをしなければならない、という主張を込めていました。
そこでは、たとえば、こんな主張をしていました。
■5.老中首座・松平定信の『海国兵談』を発禁処分
天明7年(1787年)、白河(現在の福島県白河市)藩主・松平定信(さだのぶ)が、老中首座につきました。定信は天明の大飢饉でも飢餓民の救済に敏腕を振るい、名君として知られていました。自身が徳川吉宗の孫であり、吉宗の享保の改革を手本に、寛政の改革を行い、幕政の再建を目指しました。
前任の老中・田沼意次(おきつぐ)は、蝦夷地開発に積極的で、天明5(1785)年から蝦夷地への調査隊派遣などが行われましたが、天明6年には飢饉で米を求める民衆の一揆や打ち壊しなどが発生し、意次は失脚します。後を継いだ定信も飢饉への対応や幕府財政の再建に注力せざるをえなかったようです。
定信自身も洋学に強い関心を持ち、軍事関係の洋書を翻訳させたり、北方の地理やロシアの情報を得るために、西洋の地図を入手して翻訳させたりしています。また、海防にも危機感を持ち、自ら伊豆・相模を巡検して江戸湾防備体制の構想を練るなどしています。これらは子平の『海国兵談』の影響を受けたのかも知れません。
ただ、米価高騰など社会不安が高まる中で、海防の危機を訴える『海国兵談』は社会の混乱を煽るものとされたのと、謹厳な性格の定信は、在野の論者による幕政批判を禁止していたので、『海国兵談』を発禁処分としたようです。
■6.自ら版木を彫って
『海国兵談』は第一巻「水戦編」を30数部刷っていましたが、奉行所がそれらの売れた先を調べ上げ、次々と回収してしまいました。残りの巻の原稿も取り上げられ、予約金も召し上げられ、さらに子平の身の回りには、監視の目が光っていました。
そんな中、千島列島の国後(くなしり)島のアイヌが騒ぎを起こした、という噂が伝わってきました。ロシアの鉄砲を持っていたので、松前藩も手こずったという話です。しかし、幕府はそれを知りながら、秘密にしていると言います。子平は「なんとしても『海国兵談』を世に出さなければ。日本の危機を救うために罪人になるのなら、それでもいいのではないか」と決心しました。
しかし、ご禁制の本を出版してくれる版元もありません。やむなく子平は自ら版木を彫って、全16巻3分冊を完成させました。しかし、奉行所に見つかって、版木も全て没収され、子平は日本橋小伝馬町牢屋敷に入牢させられます。寛政4(1792)年のことです。
同年5月、子平は仙台の兄の許で蟄居を命ぜられました。この年、9月にはロシア使節ラクスマンが根室に来航して、通商を要求しました[JOG(1304)]。子平の危惧していた事態がいよいよ現実化してしまったのです。しかし、蟄居中の子平には、そんな事は知らされません。
蟄居中に、子平はこんな歌を詠んでいます。
なかなかに 世の行く末を 思わずば 今日のうきめに あわましものを
(世の行く末を考えなかったら、今日のような憂き目に遭わずに済んだろうに)
また、こうも詠んでいます。
親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど 死にたくもなし
と何もないことから、自らを「六無斎」と号しました。親、妻子と並べて版木のないことを嘆いている様に、子平にとって『海国兵談』こそが、生きた証であったことを窺わせます。
しかし、子平はただ嘆いているだけではありませんでした。翌寛政5(1793)年、捕まる前に隠しておいた『海国兵談』の1部を蟄居中に4部、筆写したのです。写本を完成した直後の6月21日、子平は病没しました。
■7.実を結んだ子平の忠義
子平が死去してから約60年後の嘉永4(1851)年、子平が書き写した1部から『精校海国兵談 十巻十冊』が出版されました。ペリーの浦賀来航、ロシアのプチャーチンの長崎来航の2年前です。さらに安政3(1856)年にも『稟準精校海国兵談 十巻五冊』が刊行されました。これらは幕府の要人や尊皇攘夷の志士たちに広く読まれました。
『海国兵談』冒頭に子平が「軍艦と大砲の二つを十分に保有することが、日本の武備のあるべき姿」という主張は、広く日本国内に受け入れられていたようです。たとえば、子平の「大砲を海岸に設置して、敵船への備えとする」という構想は、嘉永7(1854)年のペリー再来航の前に、早くも「品川台場」として実現されています。
幕末から明治にかけて、日本は国を挙げて海軍力の増強に力を入れたのも、軍艦と大砲こそが海国防備の要とする子平の海防思想が国民常識として受け入れられていたからでしょう。そのクライマックスが、日露戦争における日本海海戦です。日本海海戦の勝利について、アメリカの新聞『ニューヨーク・サン』は次のように社説で述べました。
鎖国を解いてわずか50年で世界で一流の海軍国になれたのは、国民の一致結束した努力があったからです。一致結束ができたのは、子平が『海国兵談』で述べた「日本の武備のあるべき姿」について、国民的合意があったからでしょう。
「日本の危機を救うために罪人になるのなら、それでいいのではないか」という子平の国家・国民への忠義はここに実を結んだのです。
(文責:伊勢雅臣)
■おたより■
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・植松三十里『命の版木』★★★、中公文庫(Kindle版)、H23
・家村和幸『現代語で読む 林子平の海國兵談』★★、並木書房、R04
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