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JOG(043) 稲盛和夫 ~ 「世のため人のため」の経営哲学

従業員の物心両面の幸福を追求するのが、経営者の役割。


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■1.「そのような考え方では米国では成功できない」■

 1989(平成元)年、京セラはアメリカの電子部品メーカーAVX社を買収した。世界8カ国に18の生産拠点と1万人近くの従業員を持つ大企業である。通常、日本企業が外国企業を買収すると、本社から経営陣を送り込み、管理しようとする。それに対して、京セラの創業者・稲盛和夫はこう考えた。

 しかし、私は企業合併は結婚のようなものであり、心から信頼できる関係を築き上げることがもっとも大事だと考えていた。だから、買収が成立しても、経営陣はそのままにし、京セラの考え方をできるだけ早く先方に伝え、共有できるようになりたいと思った。
[1,p5]

 そのために、稲盛はAVX社の幹部との勉強会を持って、自分の経営哲学を語った。「私心があってはならない」「働く意義や目的がもっとも重要だ」と語る稲盛の言葉に、幹部社員は否定的だった。「そのような考え方では日本では成功できても米国ではできない」「それでは我々はついていけない」と言う。

 しかし、人間の本質は洋の東西を問わず同じであると信ずる稲盛は、数日間の勉強会を再三持って、彼らの疑問に一つ一つ丁寧に答えていった。その結果、彼らは「あなたの経営に関する考え方はよく分かった。その方が確かに素晴らしいので、これからはあなたの経営哲学をベースとしてAVX社を経営していきたい」と言った。

 こういう経営陣に率いられた同社は、買収後の6年間で売上は3倍、利益は6倍に成長し、バブル期に行われた多くの海外企業買収の例外的な成功例と言われた。

■2.「一致団結して、世のため人のために」■

 稲盛が京セラを創業したのは、昭和34(1959)年、27歳のことだった。当時、京都の小さな碍子会社で、セラミック真空管の開発に悪戦苦闘していたのだが、新任の技術部長に「君の能力では無理だな。ほかの者にやらせるから手をひけ」と言われた。

 稲盛は、頭の血が逆流して、「無理というのであれば、会社を辞めます」と辞表を叩きつけた。稲盛が退社すると聞いた部下たちが寮に押しかけてきた。一緒に粉まみれになって製品開発に取り組み、夜は飲みながら「素晴らしいセラミック部品を世に送り出そう」と気炎をあげていた仲間たちである。「こうなったら自分で会社をやってみるか」と稲盛が言うと、部下たちは口々に「自分も辞めてついていく」と応えた。

   稲盛は、自分に人生を託してついてきてくれる人たちの気持ちに感激して、誓いの血判をしようと呼びかけた。血の気の多い一同はすぐに賛成して、次の誓詞を書き上げ、血判をした。

   一致団結して、世のため人のためになることを成し遂げたいと、ここに同志が集まり血判する。

■3.社員たちの「要求」■

   こうして社員総勢28名の京都セラミックが出発した。幸い、松下電子工業からテレビ用磁器部品の大量注文が入り、限られた人員と設備で、来る日も来る日も徹夜の連続でフラフラになりながら納入した。一年間、わき目もふらずに走り続け、最初の年から黒字が出た。翌年は売上、利益とも倍増の勢いだった。

    創業3年目の昭和36(1961)年4月末、前年に入った高卒社員11名が突然、稲盛の席に来て「要求書」を突き出した。定期昇給とボーナスなど将来の保証をして欲しい、との内容で、「これを認めてくれなければ、みんな辞めます」と思い詰めている。みな深夜残業を一生懸命こなしてくれていた連中だ。

 ここまで言うのは、よほどのことだろう、と稲盛は彼らを自宅にに連れて帰り、ひざを付き合わせて語り合った。

 来年の賃上げは何パーセントと言うのは簡単だ。でも実現できなかったらウソをつくことになる。いいかげんな事はいいたくない。

 そう語る稲盛に、やがて一人ずつうなずいてくれたが、最後の一人は「男の意地だ」と聞かない。交渉は3日に及び、最後に「もし、お前を裏切ったら、おれを刺し殺してもいい」と迫ると、ついに彼は稲盛の手を取って泣き出した。

■4.会社を経営するということの重荷■

 交渉が終わった後、稲盛は重苦しい気分になった。こんなささやかな会社でも、若い社員たちは一生を託そうとしている。自分の技術を世に問おうと会社を始めたが、こんな重荷を背負うことが会社を経営するということなのか。とんでもない事を始めてしまった。

 数週間も悩んだ末、稲盛はふっきるようにこう思った。

 もし、自分の技術者としてのロマンを追うためだけに経営を進めれば、たとえ成功しても従業員を犠牲にして花を咲かせることになる。だが、会社には、もっと大切な目的があるはずだ。会社経営の最もベーシックな目的は、将来にわたって従業員やその家族の生活を守り、みんなの幸せを目指していくことでなければならない。

 何か胸のつかえがスーッととれる思いがした。京都セラミックは、稲盛の個人的な理想実現を目指した会社から、全従業員の物心両面の幸福を追求する会社に生まれ変わった。

 しかし、それでもまだ足りない気がした。自分の人生は従業員の面倒をみるだけで終わってよいのだろうか。自分の一生をかけて、社会の一員として果たすべき崇高な使命があるはずだ。そこで生涯をかけて追い求める理念として「人類、社会の進歩発展に貢献すること」と付け加えた。

■5.「神に祈ったか」■

 昭和41(1966)年4月、IBMから集積回路用基板25百万個の注文が来た。IBMが社運を賭けて開発している大型汎用コンピュータ「システム/360」の心臓部に使われる部品だ。技術力さえあれば、名もない小企業にも発注するのが、アメリカの一流企業のやり方である。

 しかし、その難しさは、京セラの技術をもってしても、果たして対応できるか、こころもとないレベルだった。仕様書にしても、本1冊くらいの厚さがあり、寸法精度、表面の粗さ、比重、吸水率など、従来よりも一桁厳しい仕様が並んでいる。

 京セラの技術を世界トップに引き上げる絶好のチャンス、と稲盛の闘争心に火がついた。工場の寮に住み込んで、原料の調合、成形から焼成まで、全工程の陣頭指揮をとった。

 3ヶ月、4ヶ月と時間は容赦なく過ぎていき、失敗した試作品の山ばかり高くなっていく。ある日、深夜まで働いている社員たちを激励しようと、夜中の2時頃に工場を回っていると、プレスの担当者が電気炉の前で肩を震わして泣いている。炉内の温度が均一にならず、何度やっても寸法に微妙な差が出てしまう。その日も、今度こそという思いで炉を開けて、製品を取り出してみたのだが、やはり寸法がずれていたので、泣き出してしまったのだ。

 稲盛は「焼成する時に、どうかうまく焼成できますようにと神に祈ったか」と聞いた。神に祈るしかないほど、最後の最後まで努力を傾けたか、と言いたかったのだ。「神に祈ったか、神に祈ったか」と、何度も繰り返した彼は、「わかりました。もう一度一からやってみます」やがて、彼はこの難題を解決した。

■6.「成功のための方程式」■

 こんな苦労を積み重ねて、ついに7ヶ月後に、IBMから合格通知が来た。しかし、本番はこれからだ。25百万個という膨大な量を納期までに納めなければならない。24時間三交代で月産百万個を目標にフル操業に入った。ふたたび、稲盛が現場の陣頭指揮をとった。

 ある日、大雪が降って、交通機関がストップした。各方面に迎えのバスを出したが、全面操業にはほど遠かった。昼近くパートの女性が雪まみれの姿で現れ、「こんなに遅れて申しわけありません」というなり、プレス機に向かった。2時間半も歩いて、工場にたどり着いたという。

 2年余り、全社員一丸となって生産に取り組み、ついに期限までに25百万個を完納する事ができた。京セラの製品が、IBMから高い評価を得たという噂は、たちまち国内の電気・電子メーカーを駆けめぐった。

 最後の出荷トラックが出発するのを見送りながら、稲盛はなんとしてもやり遂げるという強烈な願望を持ち続けることの大切さをしみじみ味わった。こうした経験から、稲盛は次の「成功のための方程式」を提唱している。

 人生の結果=考え方×熱意×能力

 プレスの担当者やパートの女性の「能力」は平凡でも、「世のため人のため」という正しい「考え」を持ち、それを並はずれた「熱意」で取り組んでいけば、立派な結果を出せるのである。そして、従業員にそれだけの「熱意」を吹き込んだのが、稲盛の経営者としての情熱であった。

■7.運命共同体■

「月商10億円を達成してハワイに行こう」と稲盛がブチ上げたのは、昭和47(1972)年のことだった。前年の月商が5、6億円で、一挙倍増の目標を立てたのである。

 まだ一般の人間には海外旅行は手が届かなかった時代だった。稲盛は10年前にアメリカに出張した時の、震えるようなときめきが忘れられなかった。あの感動を、苦労をともにしてきたすべての従業員に味あわせてあげたい、という気持ちだった。「2等賞はないのか」という声が出て、「それなら9億円で香港」と決めた。社内はハワイ、香港の話題で持ちきりになった。結果は9億8千万円。翌48年1月、1300人の社員がチャーター便で次々と香港に向かった。掃除のおばさんから社長まで、全員参加で2泊3日の香港旅行を楽しんだ。

 翌々年、オイルショックが直撃。受注が激減し、半分の人が余った。しかし、創業以来、全社一体となって苦楽をともにしてきた運命共同体である。稲盛は、雇用は死守する、と宣言した。

 それでも創業以来の苦境に「賃上げを一年間凍結して欲しい」と組合に申し入れた。組合は満場一致でその受け入れを決めたが、上部団体のゼンセン同盟が「凍結は困る。統一要求の29%の賃上げを会社につきつけろ」と言ってきた。

 組合内で激しい議論の後、各企業それぞれの労使関係に配慮しない一方的な指示には従えないと、ゼンセン同盟脱退を決議。以後、独立独歩の道を歩むこととなった。この時に、制定された「京都セラミック労働組合憲章」は、こう謳いあげている。

 組合の存在は人間集団の永久の幸福づくりにあり、労使は共に運命を切り開き、同じ考えのもとに喜びも悲しみも分かちあう厳しい労使同軸の関係にある。労使はこの重大な責任をいわば二分するものである。

■8.「善の循環」■

 平成10(1998)年夏、コピー機メーカー・三田工業の社長・三田順啓氏が、突然、稲盛に会社の救済を頼んできた。稲盛の経営哲学を知り、京セラなら従業員を幸せにしてくれると思ったそうだ。三田氏の社員を思う純粋な心根に打たれ、稲盛は支援を快諾した。

 京セラの支援を受けた新生「京セラミタ」の社長・関浩二氏は、京セラグループの国際経営会議で次のような挨拶をした。

 私は今、京セラミタの社長をしているのですが、そのことに運命のようなものを感じています。私は、22年前に稲盛名誉会長が救ってくださったサイバネット工業の出身です。当時、サイバネット工業は倒産寸前の会社であり、中堅幹部であった私は、明日の生活を心配していました。そんな時、稲盛名誉会長が手を差し伸べて下さり、その時の喜びと感謝の気持ちは、一生忘れません。

 ところが、今回は私が京セラ幹部として、三田工業を救う番になりました。京セラミタの社員も、昔の私と同様に京セラの支援を心から喜び、会社再建のため一生懸命努力しています。そのため業績もどんどんよくなってきています。私も恩返しのつもりで、社員と一緒に精一杯頑張りたいと思います。

 涙ぐみながらこう語る関社長の言葉に、「善の循環」とはこういうものかもしれない、と稲盛は思った。

■9.経営者の望みうる最高の代償■

 京セラの事業の成功から、稲盛は相当の資産を得たが、それは自分のものではなく、社会から預かったものだと思うようになった。そして「預かりもの」である資産を「世のため人のため」に使って、恩返しをしようと考えた。そのために640億円もの資産を提供して創設したのが、先端技術や基礎科学、表現芸術などの分野で、人類の文明と精神的深化のために尽くした人々を顕彰する「京都賞」であった。

 経営者が苦労して得た報酬すら社会からの預かりものだとすれば、一体、何が苦労の代償なのだろう。稲盛はこう考えている。

 おわかりでしょうが、このように企業の経営者というのは、たいへんな重責を負っています。一瞬たりとも気を休めることができず、努力を怠ることもできません。考えれば考えるほど、経営者であることはそのストレスや責任に見合うほどの価値がないと思うかもしれません。それほどの責任に対する代償を、経営者は得られるのでしょうか。私は得られると思います。
 
 経営者の献身があるからこそ、多くの社員が現在や将来に希望をつないで生活していけるのです。彼らは経営者を信頼し、尊敬しているはずです。金銭では量れないこの社員のよろこびや感謝こそ、経営者の望みうる最高の代償なのです。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1.稲盛和夫『成功への情熱-PASSION-』★★★、PHP文庫、H13

2.稲盛和夫『稲盛和夫のガキの自叙伝』★★★、日経ビジネス人文庫、H16

■「稲盛和夫~『世のため人のため』の経営哲学」に寄せられたおたより

「めた」さんより

 丁度、仕事に疲れてた合間に読み、非常に深い感銘を受けたのでお便りしました。

 稲盛和夫さんの情熱、経営理念、そしてその考えが社内全体に浸透している姿は今後の自分の仕事のありようを考える良いきっかけとなりそうです。

「仕事」、「経営」、「会社」。特に最近はライブドアの一件でもあるように、経済合理主義、利益至上主義的な考え方が先行しているようですが、稲盛さんのような考え方に基づいた経営が、結局は社会を最も循環させる原動力なのかもしれません。

 所詮、人が動いて、働いてナンボですし、やはり人はココロの生き物なのですから、ココロに響くモノがなければ、一生懸命にはならないのかもしれません。

■編集長・伊勢雅臣より

「世のため人のため」に働いている企業がもっとも繁栄しているとの事実は、以下の号で述べました。

JOG(333)長寿企業の言い伝え数百年も事業を続けてきた長寿企業に学ぶ永続的繁栄の秘訣とは。【リンク工事中】

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