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JOG(860) キスカ島守備隊を救出せよ(下)

 濃霧の中を、救援艦隊はキスカ湾に突入していった。


■1.米艦隊の猛攻

 一方、米軍は日本軍の電信を傍受し、暗号解析をした結果、「救援艦隊は千島を出港し、7月26日か27日にキスカ増援を試みる」と判断した。そして、救援艦隊を一気に仕留めようと、戦艦2隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦7隻の大艦隊で、キスカ南西海上で待ち構えていた。

 26日午後7時7分、数隻のレーダーで敵艦を探知した。「来た、来た」とばかり、総攻撃にかかった。戦艦は36センチ砲518発、巡洋艦は20センチ砲478発を撃ち込むという、すさまじい砲撃を行った。

「撃ち方止め」の命令が出た時には、レーダーから目標が消えていた。翌27日朝、目標地点に哨戒機を巡回捜索させたが、敵艦の残骸も発見できなかった。米司令官は「敵艦隊全滅」を確信し、キスカの南南東200キロの洋上で、給油艦から燃料の補給を受けるように命じた。

 実は、レーダーが探知したのは200キロ遠方の別の島々の反響映像だった。米艦隊が補給地点に集合する予定時刻は29日午前4時。救援艦隊は予期せぬ衝突で29日に突入を延期し、米艦隊は「幻の敵艦隊」への砲撃後、29日にその道を空けていた。

■2.「すごい霧だ」

 29日午前0時時点の橋本少尉の天候予測は「午前の濃霧または霧雨、午後曇りとなり霧薄らぐ」だった。午前6時25分、木村は各艦に発光信号を送った。「1430突入の予定。各員共同一致任務の達成を期せよ」

「突入す」という短い電信がキスカ島に送られた。日本海軍特有の音色だ。感度もいいので、キスカの近くに来ている。電信室では「ワァー」という歓声があがった。「来た来た」と言いながら、躍り上がる者、「万歳」と叫びながら室外に飛び出す者。抱き合い肩をたたき合う男たち。

 その直後、米空軍の暗号電信を傍受した。電信室が鎮まり返った。暗号解析をする。濃霧のため、哨戒機が飛行中止を連絡した電信だった。「万歳、もう飛行機は飛ばんぞ」。「敵機飛行不可」の電信が暗号化され、山中の守備隊や救援部隊に伝えられた。

 午前11時、突入まであと2時間。「これにて電信室を爆破す。艦隊のご苦労に深謝す」との最後の電信が発信された。11時30分、最後の通信手段である移動電信機と電池を背負い、電信室の時限爆弾のタイマーのスイッチを入れた。

 外に出ると、一面の乳白色の霧だ。口々に「すごい霧だ」とうれしそうに言う。これほど霧がありがたかったことはない。海岸まで2キロの道のりを、雪解けのツンドラに足をとられながら歩く。電信隊が海岸に到着した時は、陸海の将兵が2列づつ整列して、坐って待っていた。

 あと一時間、艦隊の姿はまだ見えない。5200人が霧の彼方を見つめていた。

■3.「『阿武隈』だ!」

 午後零時12分、救援隊は島を南東から回り込んで、キスカ湾に入ろうとしていた。先頭を行く最新駆逐艦「島風」が、敵レーダー波を探知。一同、身を固くした。入港作業をしていた前甲板の分隊長が「敵らしきもの左艦首前方」と報告。

「司令官、敵艦らしいです。攻撃します」と有近参謀が具申すると、木村は即座に「よし」と答えた。「阿武隈」から魚雷4本を発射。発射と同時にそのあたりの霧が晴れ、敵艦と思っていたのは、小キスカの山だった。轟音が響いて、魚雷は見事に命中。

「司令官、いまのは私の誤り、小キスカの山でした」と有近参謀が頭を下げると、木村は「それより島が見えたのが何よりうれしい」
霧は少しづつ晴れつつあり、湾内入港と収容作業には好都合となった。しかし、急がねばならない。

 警戒役の「島風」など3隻は湾外に停泊し、「阿武隈」など収容役の8隻は計画通り、湾内の所定位置に錨をおろした。木村の目には涙がにじんでいた。「よかったな」と有近の肩を叩く。7月29日午後1時40分、ついにキスカ湾に辿り着いた。

 海岸で待つ守備隊の方は、魚雷の爆発音でとっさに身を伏せた。しかし、再び、静寂に戻り、そろそろと砂浜で身を起こすと、黒い艦船の影が見えた。「敵艦だ」「鉄帽かぶれ」「動くな」と緊張した声で命令が飛ぶ。砂浜に伏せたまま時間が過ぎる。

 海軍将兵が叫んだ。「『阿武隈』だ!」4隻が見えた。5隻、6隻、7隻、8隻と、その数が増える。みんな立ち上がった。「ほんとに助けに来てくれたんだ」「ありがとう。ありがとう」 男たちの伸びきったひげ面を涙が濡らした。それでも隊列は乱さない。

■4.歩兵銃、投棄

 救援艦隊から上陸用舟艇が次々と降ろされ、陸地に向かう。砂浜に到着すると、待っていた将兵達が整然と乗り組み、すぐにまた母艦に引き返す。

 母艦に着くと、縄ばしごを上がる。その際に、歩兵銃が海にドボンドボンと投げ込まれた。通常は、命にかえても手放すな、と教えられていたが、木村は収容作業の時間短縮のために携行品は最小限とし、銃も放棄するよう指示していた。

 渋る陸軍に対して、木村は、ガダルカナルの撤退の際に銃を携行したために出港が遅れた例があり、また、いざ海戦となった場合、船内に銃が散乱していては戦闘はできない、と強硬に主張した。

 陸軍北方軍司令官の樋口季一郎中将は、参謀本部に相談することなく、独断で「やむを得ざる場合は放棄するを得」と決断した。「兵器は作れるが、人間は作れない」と樋口は書き残している。

 樋口は、この5年前、満洲はハルビンの特務機関長をしており、ナチスのユダヤ人2万人がシベリアを横断して逃げてきたのを救った人物である[a,b]。

 さらに日本降伏後に北海道占領を目指して南下してきたソ連軍に対して、千島列島・占守島で痛撃を与えた戦いでの司令官であった[c]。その時に戦った陸軍将兵の中には、このキスカ島撤退で救われた人々もいただろう。

 海軍の木村少将と陸軍の樋口少将、この二人がキスカ島撤退作戦で、見事な陸海連携を生み出していた。

■5.「お互いに本当によかったな」

 乗り組みの際に各人に許されたのは、かばん一つだったが、手に何かもって、縄ばしごを上ってくる者がいた。「荷物は捨てろ」と甲板からメガホンで指示が飛んだが、「これは戦友の遺品、遺骨であります」「遺品、遺骨は許す」

 喜びを爆発させるように、一気に縄ばしごを駆け上がる守備隊員。甲板に上がってから、「ただ日本の軍艦に乗ることさえできれば、あとはどうなってもよいと思いました。本当にありがとうございました」と一礼する隊員。簀(す)巻きにして釣り上げられる傷病兵。

 キスカ島での陸軍北海守備隊司令官の峯木十一郎は最後の一兵まで乗り込むのを確認していた。「残っている兵はおらんだろうな。病人は全部収容したか」「犬2匹は偽装のために残しましたが、島にはもはや一人の兵もいません」

 峯木のひげ面がわずかながら、ほころんだ。そして海軍部隊の司令官・秋山勝三少将とともに最後の上陸用舟艇に乗り込んだ。海軍の軍用犬「正勇」が尾を振って駆け寄ってきた。しかし、海が怖いのか、乾パンで誘っても、ついてこない。上陸用舟艇のエンジン音が高まり、後進全速。「正勇」が吠え立てる。「仕方がない。生きろよ」

 秋山が「阿武隈」の縄ばしごを上がる。幕僚が続く。甲板では木村や有近が待ち構えていた。真新しい少将軍装の木村と一年の守備で薄汚れた少将軍装の秋山が向かい合った。「司令官、ありがとう」「お互いに本当によかったな」 短い言葉を交わし、固く握手をした。二人の目が潤んでいた。

■6.アッツ島英霊の加護

 霧が晴れ始め、視界がかなり開けてきた。14時20分、「出港用意」のラッパが鳴り出した。用済みの上陸用舟艇は、船底に穴をあけて湾内に沈めた。

 14時35分。各艦が碇を上げて、順次、出港。5200人を収容するのに、かかった所要時間は55分。救援部隊とキスカ島守備隊、双方の準備と訓練の賜だった。

 救援艦隊はスピードを上げて、キスカ島を離れていった。救出された将兵は鉄帽のあごひももそのままに、甲板でじっと身を潜めている。キスカ島では砲撃と空襲を連日のように浴びていただけに、今日だけ何もないのはおかしい。そろそろ来るのでは、と身を縮めていた。

「敵の本格的な攻撃を受けても大丈夫ですか」「そのときはお手上げです」 守備隊を救出するために、救援隊の方も生命をかけての作戦だった。

 16時35分、見張り員の声がした。「敵潜水艦一隻、右正横、距離千」 有近が双眼鏡で確認すると、敵潜水艦は浮上航行中で、艦上で乗員が「阿武隈」の方を向いていた。「戦闘配置につけ」のサイレンが響く。艦内の緊張が一気に高まる。

「司令官、どうしましょうか。知らぬ顔で行きますか。一発やりますか」「ほおかむりで行け。この際だ。触らぬ神に祟りなし」木村はにっこり笑った。

 その瞬間、敵潜水艦がパッパッと発光信号を出し、すぐに潜航して消えてしまった。味方の巡洋艦と誤認したようだった。煙突の一本を白く塗った偽装工作がまんまとうまく行った。

 夕刻が近づき、艦はアッツ島の南を通った。甲板上は立錐の余地もないほどだったが、誰ともなくアッツ島に向かい、帽子をとって頭を垂れた。玉砕したアッツ島守備隊への黙祷だった。「阿武隈」の乗員も同じように、頭を垂れる。全艦が祈りに包まれた。北の波間から、「万歳」の声を聞いた者がいた。

 8月1日朝、島影が見えた。幌筵島だ。上空には日の丸をつけた陸軍戦闘機「隼(はやぶさ)」が飛んでいる。キスカ島では敵機は毎日のように見上げていたが、友軍機を見るのは久しぶりだった。

 岸壁では出迎えの将兵が、大きく帽を振っている。停泊している艦艇の上でも帽を振っている。「阿武隈」甲板でも、みなが帽を振って応えた。「ありがとう」「万歳」「おーい」。誰もが叫んでいた。誰もが泣きじゃくっていた。生きて帰ってきた。一人も残さずに生きて帰ってきた。

■7.もぬけの殻

 米艦隊は、ちょうど日本の救援艦隊がキスカ湾に突入した29日だけ、給油のために攻撃の手を休めたが、30日から再び、キスカ島に向け艦砲射撃を再開した。

 日本軍の陣地からは黒煙が上がり、時々、爆音が聞こえていた。黒煙は、撤退前に最大限、ゆっくり燃えるようにストーブや炊事場に石炭やツンドラの灌木(かんぼく)を入れ、爆音は時間差を置いて時限装置をセットしていたのである。

 米軍はアッツ島奪回作戦では日本軍の激しい抵抗で、上陸兵力1万1千人中、死傷者1800人も出しただけに、キスカ島でも同様の抵抗があるものと考え、今度は百隻近い大艦隊と、3万5千人近い大兵力を揃えた。

 8月14日、米艦隊はいっせいに艦砲射撃を加えた後、15日の日の出を期して上陸を開始した。濃霧の中を日本軍陣地に向けて手探りで進軍。「守備隊が待ち構えている」という思い込みから、各地で激しい同士討ちが起き、死者25名負傷者31名を出した。さらに駆逐艦「アブナ・リード」が機雷に触れて、死者行方不明者70名を出した。

 日本軍の軍医が偽装のために掲げた「ペスト患者収容所」と書かれた看板を見て、あわててワクチンを取り寄せまでした。もぬけの殻と気がついたのは8月18日、日本軍主力の兵舎に到達した時だった。日本軍撤退後、20日も経っていた。

 米軍はキスカ上陸作戦の戦果として、「捕虜は雑種犬3頭」と発表した。海軍の「正勇」の他、陸軍の二頭も、猛烈な艦砲射撃を生き延びたのである。米軍航空兵は「われわれは10万枚の(投降を呼びかける)チラシをキスカ島に投下した。しかし、犬では字が読めなかった」と自嘲している。

■8.英霊の加護と天佑

 北方軍司令官の樋口は、後に、作戦成功の要因として、濃霧と海軍の友軍愛とともに、アッツ島英霊の加護を上げている。アッツ島守備隊があまりに見事な玉砕を遂げたので、アメリカ軍はキスカ島守備隊同様の戦術をとるものと考え、まさか撤収するとは考えもしなかったのだった。

 木村は日記に、「国後」の衝突事故で突入が29日に延び、また米軍もその日は「まぼろしの敵艦隊」攻撃後に、哨戒を解いていたこと。さらに濃霧に守られながらも、突入時のみ霧が晴れて入港・収容作業が迅速容易に行われた事を挙げて、「以上はすべて天佑にあらずしてなんぞや」と書いている。

 天皇陛下からは、次のようなお言葉が電文で寄せられた。

__________
 陸海軍能く協同し有ゆる困難を克服して
 今回の作戦を完遂しえて満足に惟(おも)う。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 陸海軍一致協力して作戦・準備・訓練に人事を尽くしたことで、英霊と天が助けてくれたのだろう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(085) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)
 人種平等を国是とする日本は、ナチスのユダヤ人迫害政策に同調しなかった。
【リンク工事中】

b. JOG(086) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(下)
 救われたユダヤ人達は、恩返しに立ち上がった。
【リンク工事中】

C. JOG(203) 終戦後の日ソ激戦
 北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。
【リンク工事中】

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 将口泰浩『キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』★★★、新潮文庫、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4101384118/japanontheg01-22/

2. 阿川弘之『私記キスカ撤退』★★、文春文庫、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B009HO4IYO/japanontheg01-22/

3. 三船敏郎(出演)『太平洋奇跡の作戦 キスカ』(DVD)★★★、東宝、H25
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■おたより

■大輔さんより

 貴誌のあまりの凄さに感想を書きたくなり、メールさせて頂きました。読めば読むほどに貴誌のすごさを感じます。私自身どれだけ日本の歴史を知らなかったのかを痛感します。先日のキスカ島救出作戦の話も感動しました。

 貴誌を読み始めた頃はあまり知識もなく、難しくて長いメルマガだなぁと思っていました。

 もともと北野幸伯氏のロシア政治経済ジャーナル(RPE)というメルマガをずっと読んでいて、北野さんがものすごく貴誌を推奨して下さっていたので読み始めました。

 北野さんが推薦する図書やRPEを読んでいくうちに貴誌もすんなり理解できるようになり、今では貴誌が送られてくるのを楽しみにするようになりました。

 私が決定的に覚醒するようになったきっかけは東日本大震災です。(私は大阪在住です。)あのとき、政府が放射能情報を隠していると気付き、自分でいろいろ情報を取りに行くようになって、いろいろなことに気付き始めるようになりました。

 そうして馬渕睦夫氏著の「国難の正体」や天野統康氏著の「あなたはお金のしくみにこうして騙されている」という本などを読んだりしていくうちに、世の中の仕組みというものを生れてはじめて知ることになりました。

 今は井上太郎氏著の「日本のために」と言う本を読んでいます。

 私は物心ついたときから自分は一体何のために生まれてきたのだろうと悩んできました。

 何か日本は眼に見えない仕組みでがんじがらめになっているようで、大人たちも楽しくなさそう、幸せでなさそうで、頑張って受験競争に勝ち抜いても待っているのは過酷なサラリーマン生活。理不尽な境遇で働かされている父の背中を見ていると、将来にはとても希望を見いだせませんでした。

 しかし、今は日本の自立のために貢献するという明確な人生の目的・目標を持つに至りました。

 今後も貴誌やRPEなどを通して知識・知見を高めつつ、日本の自立に向けて自分は何をしたらいいのか、何から始めていけばいいのかを考えながらまずはいろいろ学んでいこうと思っています。

■編集長・伊勢雅臣より

 大変な応援をいただき、恐縮しています。大輔さんのような方が一人でも増えれば、それだけ未来の我が国は安泰に近づくでしょう。

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