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たまには暗い話をしよう

私の敬愛する星野源さんと、オードリーの若林さんの番組「LIGHTHOUSE」がNetflixオリジナルで配信開始したのでこのnoteを書いている。

感想を言えるほど二人の会話を自分の中に落とし込めたわけでもなければ、この二人のこの言葉が良すぎる!とバカデカ感情でブワーッと話せるわけでも、考察や分析ができるわけでもない。だけど、話される内容が全て自分に刺さるものがあって、やっぱり星野源好きだーーーーー!となって、星野源最高!!!と思うところがありすぎるので、インプットをしたぶん自分の言葉でアウトプットをしていこうと思ったところである。まあ要はでかい独り言だし、自分のための自分語りになる。はあ、星野源、好きだ。これもう11年?12年?同じことを繰り返しているのまじですげえよな 10年以上好きが続くって、すごいんだわ その分星野さんに惚れ直す要素がずっとありすぎるってことなんだけど


人生には必ず寂しさがつきまとう

人生って寂しいよね、って決めつけてしまうのもなんか違う気がするし、もちろん寂しさを感じない時もたくさんある。でもなんか、ふとした瞬間に形容しがたい「寂しさ」が襲ってくることが多々ある。無くなるわけでもなければずっとあるわけでもない。私の後ろからずっと付かず離れずの距離で着いて回り、何の脈絡もなく突然心に入り込んでくる。「つきまとう」という表現が一番近しい気がする。

私のそばには色んな人がいる。家族、友達、職場の同僚、仕事で関わる子どもたち、最近では大切にしたいと思える恋人もできた。
でも、寂しさはなくならない。寂しさを感じるたびに「人はやはり独りなのだ」と思う。

寂しいという言葉を辞書で調べてみると「心が満たされず、物足りない気持ちである」「仲間や相手になる人がいなくて心細い」「人の気配がなくてひっそりとしている」と意味が出る。

たまに襲ってくる寂しさの理由はなんだろう。3つ目は環境的なものであるとしても、前者2つは意味合いとしてはよくわかる。でも私は一人が嫌いなわけではない。むしろ、一人の時間がないと逆に心が死んでいくタイプだ。適度に一人の時間を作らないとずっと疲れが蓄積される。一人の時にしか得られない栄養や休息が一人の時間にはあるのだ。

そう考えると私は「一人」は好きであるが孤独という意味の「独り」は嫌いなんだなと改めて思う。この意見は結構見かける意見で、ネットとかで同じような人を見かけると安心したりもするが、こうやって文章にすると「結局自分も大多数の中の一人でしかないのだ」と思ってバカバカしくなる。こんなことをわざわざ文章にしなくてもな、とも思う。

恋人ができると寂しさってなくなるのかと思っていた。でも実際はそうではなくて、会えない時間が長かったり、自分よりもなにか別の事を優先されていると感じたりすると、言葉にすると大げさであるし、何より相手に申し訳ないのだが、まず「裏切られた感」を勝手に感じる。それと同時に、無自覚に相手に期待していた自分にも気が付くし、期待していた分、悲しさや寂しさの反動がでかい。それまでの人生において「人に期待をしない方が心が楽である」というスタンスをとっていたのだが、恋人となるとうまくいくものもそういうわけもいかなくなるのだ、と新しい発見があった。あと、恋愛こそ寂しさは切っても切れない関係なのだなと思う。

恋愛においての寂しさは特に自分の幼少期の親との関わりや愛着が大きく関わってきているんではないだろうかと、自分の心と向き合い、向き合い、向き合いまくってたどり着いた。

親は自分が生まれてから死ぬまでの間、ずっと自分の唯一無二の味方であると考えている。(もちろん10人いれば10通りの家庭環境があるため、そんな主語大きく言えることばかりではないのだが)
唯一無二の味方、という点では恋人も近しいところに位置づけられる気がする。基本は味方でいてくれて、時には叱咤激励をくれたりする、無条件に愛を注いでくれるような、親のようなそんな存在なのではないかと思う。

私の母はいつでも私の味方でいてくれて、つらいときは優しく背中をさすってくれた。腹割って本音を吐き出したことも喧嘩をしたこともある。でもそれは中学から今現在までの記憶である。

母子家庭で育った私は、おそらく母の十分な愛を受けずに大きくなっている。子どもに関わる仕事をしているからこそ、母との愛着関係がうまく構築できていない故に出てくる子どもの試し行動や、穏やかではない子どもたちの言動を見てきた。子どもたちの家庭環境や育ってきた背景から心の機微を読み取って、今現在の姿があるのではないかと、見立てを立てて子どもたちの今をどうしていくかを考えていくことがたくさんある。
それらを考えていくと、私自身の心の生きづらい動きや、自分の価値を変に下げたりする思考など、「幼少期のこの経験が今の自分を形成してしまっているのではないか」とよく思う。もちろんそれだけではなく、色んなことが密接に交わりあっているのだが、突き詰めていくとやはり根っこは母からの愛情不足にたどり着くのだ。
だからといって、当時の母が私を愛していなかったかと言われるとそうではない。母は母なりにとても苦労しながら姉と私を育てくれた。育てることに一生懸命だっただけだ。それでも、あのときの私の気持ちだけにフォーカスを当てるとすれば、当時の私は“寂しい”という気持ちを大きく抱いていた。

今ある「寂しさ」を深く深く突き詰めていくと、当時、「ちょっとしたら帰ってくるから」「すぐ帰ってくるから」と言って出ていったきり、約束どおりに帰ってこない母を待ち続けるあの時の私といつも鉢合うのだ。

幼少期の自分との対峙

「ちょっとしたらってどのくらい?」「すぐって何時?」と母に聞くようになったあとは「どうせすぐ帰ってこないじゃん」と諦めるようになった。
私は上記のような「具体的にどれくらいなのか」みたいな質問を、恋人にもしていることに気が付く。たとえば、ちょっとだけ会って帰る、って言われたときとか。聞けなかったときはもう極端なくらい短い時間を自分の中でイメージして実際会ったときにどれだけ短い時間を提示されようとも傷つかなくて済むようにしている自分に気が付く。これから私は私の幼少期の自分の影響で和歌さんに何も悪いところが無くても、和歌さんの言動で傷つくことが重なってきたら、最後は諦めるようになるのだろうか。

それでも私は幼少期のあの頃の寂しさを多く抱えてきた私と、訣別したいとは思わない。あの時、悲しかった、傷ついた、期待して裏切られたような気持ちになってあの当時から覚えてしまった「諦め」をマイナスなこととも思わない。だってあの時の私にとってはそれが最大限の自己防衛の方法だったのだから。自分で身に着ける必要があるスキルだったのだ。

でも、そのときの自分が影響して今いる大切な人たちに迷惑かけたり嫌な気持ちにさせたりすることだけは避けたい。これは他の誰でもない自分自身の問題であるからだ。他の人たちには全く関係のないことなのだ。

自分の生きづらさを自覚して、どうしたら生きやすくなるのか、色んな本を読んであの頃の自分も受け入れながらメンタルコントロールの方法を少しずつ身に着けている途中である。

寂しいから察してほしい、寂しいから不貞腐れる、寂しいから相手を困らせる、よくある試し行動であるが、こんなのは良くない。相手がだれであっても良くないのだ。人間関係におけるコミュニケーションのコの字にすらならない。あと、寂しいのを我慢するのも良くない。どうせ後から爆発するのだ。あとそんな人間は私も関わりを持ちたくない。
どうせ同じ「寂しい」なら、寂しいときには素直に「寂しいよ~!」って言える愛嬌のある人間でありたい。それが難しいのだけれど。

自分と向き合い、自分の課題と付き合っていくのは苦しくも辛くもあるだろうが、自分を客観的に見ながら自分の今の気持ちの核はなんだろうと考えられるようになりたい。そしてそれをあまり辛気臭くというか暗くならずに人間的に「かわいい人だな」と思ってもらえるような、ポップに伝えられる人間でありたいなと思う。

あとあれだ。寂しいと何に関しても依存になりがちなので、自分の人生は自分で楽しめるような、強い人間になっていきたいな。依存は苦しいから。

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