『スコット・フィッツジェラルドと村上春樹 1 』
村上春樹のある小説からフィッツジェラルドとの関係を読み解く。
(小説から引用)
十八歳の年の僕にとって最高の書物はジョン・アップダイクの「ケンタウロス」だったが何度か読みかえすうちにそれは少しずつ最新の輝きを失って フィッツジェラルドの「グレート・ギャッビー」にベスト・ワンの地位をゆずりわたすことになった。
そして「グレート・ギャッビー」はその後ずっと僕にとって最高の小説であり続けた。
僕は気が向くと書棚から「グレート・ギャッビー」を取り出し出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただ一度も失望させることはなかった。
1ページとしてつまらないページはなかった。なんと素晴らしいんだろうと僕は思った。そして人々にその素晴らしいさを伝えたいと思った。
しかし僕のまわりには「グレート・ギャッビー」を読んだことのある人間なんていなかったし、読んでもいいと思いそうな人間すらいなかった。
その当時、僕のまわりで「グレート・ギャッビー」を読んだことのある人間はたった一人しかいなかった、僕と彼が親しくなったのもそのせいだった。
彼は永沢と言う東大法学部の学生で、僕よりふたつ学年が上だった。 我々は同じ寮に住んでいて、一応お互い顔だけは知っていた間柄だったが、ある日、僕は食堂の日だまりで「グレート・ギャッビー」を読んでいると隣に座って何を読んでいるのかと訊いた。 「グレート・ギャッビー」だと僕は言った。面白いかと彼は訊いた。通して読むのは三度目だが読みかえせば読みかえすほど面白いと感じる部分がふえてくると僕は答えた。
『「グレート・ギャッビー」を三回読む男なら俺と友達になれそうだな』と彼は自分に言いきかせるように言った。そして我々は友達になった。十月のことだった。
永沢と言う男は、くわしく知れば知るほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と知り合い、すれ違ってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかったことはない。
彼は僕なんかはるかに及ばないくらい読書家だったが、死後三十年を経っていない作家の本は原則として手にとろうはしなかった。そういう本しか僕は信用しないと彼は言った。
「現代文学を信用しないと言うわけじゃないよ。ただ僕は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短かい」
「なあ知っているか、ワタナベ? この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみんな紙屑みたいなもんだ」
「どうしてそんなことがわかるんですか?」と僕はあきれて質問した。
「俺にはわかるんだよ。おでこにしるしがついてるみたいにちゃんとわかるんだ。見ただけで。それに俺たち二人とも『グレート・ギャッビー』を読んでいる」
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