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【保存用ログ】ワークショップ第07回[20200518-0524]『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』【読書会】

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マッキー
それでは新しい週ということで、さっそく始めさせていただきます。
よろしくお願いいたします。
今回は読書回です。
『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』
WS記事はこちら↓
https://note.com/makipen/n/neda37e5bffae?magazine_key=m23440eb0e57e
※書籍の文章公開はワークショップ控室でご案内の通り。
記事内でもご案内していますが、今回は最初の(月)(火)で(できれば(月)に)WSでは考え始めてから15分程度以内で書き終えることができるあえて“質の悪い”意見を出していただきたいです。ワークショップ初期の段階では質より量を大切にしたいので、ご協力いただければ幸いです。逆に言えば、ワークショップに15分程度お時間を頂ける方にはコメントを頂きたいです。笑
※まだ読まれていない方は途中までの段階でのコメントで結構ですし、全く読んでない方は基本発言は自由ですのでお好きに発言されてください。
中々手探り状態ですが、皆さんにとって意味のあるものになれたらなと思います。
一週間、よろしくお願いします。

■1

A
著者は、贈与というのは人との間に「今ー未来」「今ー過去」が交錯して現れると言いますが、自分の内側においてが最も起きていると思います。そもそも贈与が交換になってしまうのは、相手を100理解できないことが一因と考えられるので、その点は自分を知っている(哲学的な我を知ることではない)のは自分であるので、返さねばとはなれず、交換にはなれないと思います。もし自分からの贈り物に気付いても過去の自分からの縛りを感じない人が殆どでしょう。

マッキー
さっそくコメントありがとうございます👍
初めて聞く内容だったので、少し詳しく聞いてみてもいいですか?
"自分の中で贈与が行われる"ってどういう感じなんでしょうか?過去の自分から現在の自分への贈与・・例えば勉強とかはその定義に入りますでしょうか?
あと、相手を理解できないから交換になってしまうというのは、相手のすべてを分かっていれば、返す必要すらなくなるという事でしょうか。なんというか理解し同化してしまえば、主客の境目すらなくなるという感覚かな。
その哲学を持つに至った経緯も気になるところですが笑
お時間あるときにここら辺の感覚、教えていただけると嬉しいです。
A
筆者は、お金で買うことのできないものおよびその移動を「贈与」初めに定義しているので、もちろん、直後にある「自分へのご褒美」の例のように物自体にはそれを見出せないのはわかりますが、物体や非物体に関わらず贈与を対人関係のなかに限定(筆者がそのように定義している?)しているのは納得のいくものではありませんでした。ふと自分を振り返った時に、その全てにアノマリーを感じるのではないでしょうか。前者の問いに僕なりに答えますと、過去からの贈与は過去全てです。後者には、人への理解は不完全に決まりきっているし贈与かどうかは各人の匙加減なので無理に贈与贈与しなくて良いと考えていると答えたいと思います。
筆者は本書内において、贈与する目標の一つは、健全な資本主義をつくることだと言っていたり、教養とは誤配に気づき贈与を悟ることだと断言しています。この考えを支持し広めようとするのであれば、確かに他人からの贈与の可能性を考え想像し、次の人に繋げようとなるのかもしれませんが、歴史を勉強するより、自分を振り返った方が早く不確かではないし、どっかから誤配があるかもと考えるより、自分について閉じている内で思考を凝らすべきだと思った次第です。この考えは、自分の中では、齟齬が発生しない事、ギブアンドテイクやwin-winの関係が成立し得ないことに基づいています。
以上は、主観>客観の方が話して意義があると思ったので、現代文というより小論文の感で書いています。そのため、筆者の定義と多少異なっていることにご了承下さい。筆者の「贈与」の定義がこのお上なく狭義のものでありましたら、上記の文は完全に僕の世界の中での事になってしまうので読み流していただいて結構です(笑
マッキー
@A ありがとうございます。感じ方は人それぞれなので、『贈与』という言葉の捉え方も無理やり著者に合わせる必要はないと思います。著者の世界を理解するにはいったん自分の中に落とし込む必要はありますがそのうえで自分の『贈与』像との距離を測定すれば、本書の役割はほぼ終えていると思います。その意味でAさんは達観してますね笑
贈与を対人関係に限定する論法に納得がいかなかったんですね。私なりの理解ですが、近内氏はあくまで本著で”人と人とが応答しあう社会”という単位での眼鏡を用意したかったんだと思います。互いに真の意味で理解し合えない人という単位だからこそ、その説明に言語ゲームを援用し、必然贈与の定義も対人間通信を焦点とする。
でも、自身の中で完結した世界を用意すればそこにも、贈与は定義できますしその場合、過去の自分からの贈与という概念も当然出てくるともいます。
(むしろAさんのその世界観を拡げてみると面白そうですね)
こうした定義の部分からの指摘のコメントはなんかテンションが上がります。ありがとうございます。

■2

B
(2秒で考えた気軽すぎるコメント)
読んでてパッと思いついたフレーズ3選
①タダより高いものはない(贈与の特殊性)
②情けは人のためならず(贈与の対流)
③「お金で買えない価値がある、買えるものはマスターカードで。」のCM(本当に無関係)
諺にも、哲学はあるんだなあとしみじみ。

マッキー
気軽なコメント大歓迎です笑
2秒ありがとうございます
贈与にまつわる諺って結構ある気がしますね。
『よそ様からの贈与は実は交換だから気をつけろ』
『贈り物は損じゃない。後でちゃんと帰ってくるから。』
表裏一対の諺ですね。
極楽浄土に行くために徳を積む。最後の審判のために善行を行う。・・・贈与”的”な交換が人を動かしてきたのは間違いないですね。
ただそうした合理的個人(ホモエコノミカス)を超えた行動原理を探求する方向にも人の探求は向いている(行動経済学など)ようなので、そちら方面にも興味があります。
B
めっちゃ適当なのに丁寧に返信ありがとうございますw
自分が読んだ本(というかワークショップで扱う予定の本)には「市場規範」と「社会規範」と言った枠組みで考察されていましたね。
一度「市場規範」に捕捉されてしまうとなかなか「市場規範」に戻るのは難しいようです。
何かを抑制するために罰金制にすると「罰金払えば良いんだろ」となって更に悪化し、罰金制をやめても改善する事はないそうです。悲しい。
マッキーさんの仰る通り、本書の内容と行動経済学は結構リンクする側面が多いので驚いています。
いろんな人のWSがリンクすると更に楽しくなりますね!

■3

マッキー
さっそくありがとうございます!
僕もとりあえず心に留まった部分をつらつらと
■贈与の失敗×3
①見せかけの贈与・・・贈与の振りをした交換。セカイ系の贈与。献血は届きづらいので“コスパ”悪し。
②贈与に気づけない・・・贈与をしても、受け手が気づかなければ成立しない。だから想像力が大事。
③贈与の呪い・・・贈与の受け手の負債意識は、受け手の思考や行動を制約し疲れ果てさせてしまう。年賀状はだるい。ダブルバインド。岸田秀の事例はよく理解できない。

■4

マッキー
第5章 僕らは言語ゲームで生きている
『他者とともに生きるとは、長い期間一緒にゲームに参加し、一緒に言語ゲームを作っていくこと。それが他者理解につながる。』
そこだけのローカルルールを知ることで初めて、ルールからの逸脱(アノマリー)を知ることができるという事か。
社宅の草刈り当番をすっかり忘れてた時に下の階の人が代わりにしてくれてたことがあった。住んでみて分かったが、結構よそ者には冷たい文化の社宅なので、今考えるとかなりありがたい贈与だった。

■5

マッキー
第8章アンサング・ヒーローが支える日常
”何も起こっていない”を起こした人に求心的思考により気づくこと。文明の秩序というアノマリーに気づくこと。その返礼として、再びこの社会を言えないところで支える主体になることができる。
大好きな中島みゆきの『地上の星』が頭の中で流れてきました。沢山の見えない星が存在することに気づくことが、自分の生きる意味を見出すことにつながる気がします。
大学生のころ光り輝く星になるより、おっきな6等星になろうぜ!的なくそ恥ずかしいことを語り合っていた友人が今や、バリバリの1等星になりつつあることも絶妙な気持ちで思い返してます。人生むずかし

■6

マッキー
念のため補足します。
私が適当に聞きまくっているコメントにも、横やり大歓迎ですので気になるトピックがあればコメント頂ければ嬉しいです。
特に今のところ、議論をある一つの方向に・・という形は考えていませんので引き続き自由にしていただければともいます。

■7

C
たった今読み終えたので、思ったことをいくつか。
・例えば友達がお菓子食べててこれ食べる?と言ってきたときにいつも何故か断ってしまうのは、「贈与の返礼義務」を感じていたからなんだと再認識させられた。
・ただ例えば上の例では友達はメタメッセージとして「親愛の証」を贈与してくれていたのかなということにこの本を読んで気付かされた。(「その友達からの『親愛の証』の贈与」をこの本から贈与された?)
・8章の「復活の日」の話は、半年前に読んでいたら軽く読んでただろうと思いますが、今読むとまさに現在の世界と重なる部分が多すぎて、改めてSFじみたことが今起きているんだということを感じました。南極に逃げようかなぁw

マッキー
@C 「親愛の証の贈与」の贈与という発想は面白いですね。そうして入れ子構造的にメタを繰り返していくと終わりがなさそうですが、どこかで自分は物事をどういう風に捉えることが好きか、という好みのストッパーを入れ子地獄のどこかの階層に引っ掛ける必要があるんだと思います。
復活の日、映画版見ましたがかなり悲惨でしたよ笑
まさに”守られた安定”に気づかされますよね。

■8

マッキー
 本書内で著者は、仕事のやりがいはその贈与性に規定されると述べています。「自分にできること」「自分がやりたいこと」が一致しただけではそれは天職とは言えず、天職とは「自分がやらなければならない」という使命感を付帯するものである、と。天職なんて就けねえよ、人生そんな甘くねえんだよと思いつつ、そんなことを言う大人にはなりたくないという思春期的感情にもしてくれるページでした笑

 少しだけ私のことを語ります。私は、 “暮らした人の心にいつまでも残るような街”を創りたくて今の会社に入りました。多少は大阪や神戸の街並みの形成に関わることができたとは思います。しかし、実際毎日考えていることは自治体からどう補助金を引き出すか、建設業者にいかに安く発注するか、上司の決裁をいかにスムーズにとるか・・・そんな超近視眼的なことばかりで、仕事上の喜びもそうした課題をクリアできたときに得られるもので、住民や利用者の顔なんて想像すらしていない状況に最近気づきました。いや、当初から気づいてましたが、考えないようにしていました。恐らく今の会社にいて40歳、50歳になればいかにして少なくなった椅子を勝ち取るかの政治ゲームの勝敗に多少は関心が行くのでしょう。政治ゲームに負けそうになれば、“自分は初めからそのゲームには参加していなかったんだ”と思い込むことで、傷を最小化するのでしょう。やばいテンションが下がってきた。最近本気で転職検討中の迷子です。まあ今の仕事も悪くはないんですが。。(という言い訳)

 皆さんはいかがでしょうか?私のような迷子はいらっしゃいますでしょうか?それとも “天職”で邁進していますでしょうか?@D さんや@E さんのように教育をされている方、@F さんのように営業マンをされている方、@Gさんのように、国防に関わっておられる方、そして@H さんのようにご自身で経営されている方、それぞれ全く異なる働き方をされていらっしゃるかたがこうして一つのコミュニティで意見交換できる環境にあることは貴重だと思います。皆さんがご自身の仕事に対してどのような考えをお持ちなのかをこの機会に少しだけ聞かせてもらえませんか?
 ちょっと引くぐらい長いですね笑
 @I 君のバイト事情も、もしよければよろしく!

I
マッキーニキ、大人は大変ですな…。大学出て就職したらもう全てと踏ん切りをつけて良くも悪くも迷うことなく生きていける、それこそが大人なのだと思っていた時期が僕にもありました…。でもみんな悩むものですね。
僕も一時期ドトールというコーヒーチェーンでバイトをしていましたが、ほぼ一日中バイトのことを考えていることに気づき、そんな事している自分が嫌になってしまったので勤務三日目でやめました。最初は飲食店の仕事を見てみたいだとかカフェで働いているとモテそうだとか様々な大志を抱いていたのですが、最後にはバイトをするメリットより自分の生活の質をとったのです。
マッキーさんのスケールに比べればハナクソのような話でしたが、それでも本質的な部分は「自分が“今”何を一番求めているか」と言えるのではないでしょうか。この「今」一番進みたい道をいくという決断を続けていけばその決断点がずーっと集まってbest lifeな線になると思います。と温室育ちのプー太郎は思っている次第です。
僕も大学進学の際、エンジニアへの道か文系学科への道か迷っていたのですが、「もし自分が近いうちに死んでしまうとしたら何をしたいか」を考えたとき、迷子のIは大学生Iへすっと進化できました。
…しかしやはり社会的立場も年齢も違うマッキーさんへ僕が何かご助言できることはしれてますな…。
マッキーさん自身が悩みに悩まれたすえにお出しになる結論が最適解であるとこのIは思います。

■9

J
(noteで無料公開されている部分まで読了)ケチじゃない!倹約家なんです!
・贈与と聞くとボランティアとか国境なき医師団とかを思い浮かべます。特に、去年アフガニスタンで亡くなった中村哲さんは印象深いです。彼を追悼する現地の人々の姿が心に残ったからかもしれません。違う土地の人間があそこまで多くの人々に影響を与えたのを見ると、それだけ中村さんの功績が大きかったなと再認識できます。
 あそこまでの大規模な贈与だと、"負い目"は薄れてしまうのだろうか?そもそも、自分たちの生活様式を変えるレベルの贈与は筆者の言う”贈与”の範疇なのかも考えてみたくなった。自分の生活に照らし合わせてみると、ライフラインなどは料金・税金などを払っているから「交換」というシステムの上で成り立っている。と...
・「等価交換」って聞くと、自動的に鋼の錬金術師が頭をよぎることに気づいた。(オタクだね~)ハガレン最終回では確か、「等価交換」よりも「ちょびっと上乗せしてお返し」していこうと主人公たちが決心する場面があります(多分)。これも贈与に近い考え方かなと思いました。
・それと、親と子の関係性について。ぼくは親のスネをかじって生きています。親にはよく「大学行って、いい仕事に就いて、お金稼がんかい!!」と口酸っぱく言われてきました。多分うちの親はちょっとだけ見返りを求めるようですが、親も人間。多少は報われたいと思うでしょう.と僕も思うので、そこは目をつぶっておきますわ!でも僕は十分すぎる程愛情を注がれたので心は健康です。(岸田秀さんの事例を踏まえて)ありがとうマッマパッパ!
その他気になった一節をぺたぺた
・贈与が呪いとなる。
・贈与は必ずバックにストーリーが存在する。
・サンタクロースの機能の本質はどこにあるかというと、「時間」
・贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する。
それと大人の世界って大変ですね。。。マッキーさん頑張ってください!応援してます!あ、それと返信は不要ですお^^(呪

マッキー
@J 呪いに引き寄せられたわ笑
中村哲さんは衝撃的でしたね。僕から見るとそれこそペイフォワードの少年のような聖人に見えてしまいますが、中村さんの中ではどのような信念がおありになったのか・・永遠に分からないですね。。相手が偉大過ぎると想像の余地がなくなり、負い目すら感じなくなる事ってある気がしますね。でも本書の意図する隙間をうめる贈与って、その場で直ちに負い目を負わせるものではなく、時間差でもう返せない状況で気づき、相手を変えた反対給付を喚起するものでしたね。現地の人にとってはこれから、”お返し”がやってくるのかもしれませんね。
親は子に立派になってほしいもんですからね笑
僕は次男なんで兄と比べると何も言われませんでした。兄が経済面を気にして九州(地元)の大学に行ったのに、弟が東京の大学に行ったんで、今考えると結構なKY弟でしたね。
Jさんが関係円満そうで何よりです。

■10

K
長くなってしまったので本文の読み取りと触発されて思ったことを分割して投稿します↓
<全体を読んでの感想>
・(存在論的、郵便的は挫折したのですが最近の東浩紀の著作に目を通していたので)資本主義を補うものとして贈与という交換の形式が必要だという主張はすんなり受け入れられました。
・個別の物の移動や行為の授受に伴う贈与からペイ・フォワードや親子関係のように複数人の間を流れていく贈与、そしてアンサングヒーローが行う贈与と、プレゼント+αの概念が徐々に対象とする人間関係が大きくなっていく展開が面白かったです。
<あまり良くわからなかったところ>
・もはや一体どちらがどちらに贈与しているのか分からなくなり、「受取人」と「差出人」が刹那のうちに無限回入れ替わるような事態があります。(Kindle の位置No.2356-2358). →具体的にどういう事態なのかイメージできませんでした。(´・ω・`)
・不当に受け取っていたもの、誤配に気づくはずです。(Kindle の位置No.2401).
→「勉強」によって、現代社会の基礎となる他者からの贈与を認識できるようになるというこの節の主張には共感するのですが、現代人がその贈与を「不当に受け取っていたもの」と解釈すべきかが疑問に思いました。社会の一員であるということは、第一章で親子関係の具体例を用いて説明されたような通時的な反対給付の連鎖だけではなく、どちらかというと同時代人との相互関係における交換・贈与の影響が大きいと思ったので。
・アンサングヒーローの概念があまり良くわからなかった。7、8、9章を読む際、社会の日常の具体例が資本主義に組み込まれて実現されているものだったのでそれに引きずられて初読の際に混乱した。

マッキー
@K さんはじめまして。さっそくありがとうございます。
確かに普段感じるのは先人からというよりも同時代人からの贈与・交換かもしれませんね。あとはちょっとひねくれた考えかも知れませんが、名誉を目的として偉業を成し遂げた指導者(政治家?)に後世の我々が感嘆する行為って”先人との交換”なんじゃないかとも思います。
人の心理過程を定量的に評価するというのはワクワクするような、でも恐ろしいよいうな気がします。いつかはほぼ実現されるでしょうが。本書内では人の心の中は誰ものぞけない、という事が大事なキーポイントである気がします。だれも覗けないから、贈与に気づかれないかもしれない。そうしたファジーさ加減が生きがいとかの議論につながるような気がします。
情報を学ばれているという事で、今後またいろいろと教えていただければ嬉しいです。

■11

K
<おもったこと、その他>
・交換・贈与に伴って具体的に起きていることは、個人の心理的な状態の変化を除くと物の移動や行為の授受なので、要はそれをどう解釈するかという気の持ちようの問題だなぁ。
・いいね!は贈与か。リツイートは賦か。
・資本主義において贈与の余地があるのは値付けにもコストが発生するからではないか。(取引で発生する心理コストが定量的に扱えるようになれば、その場その場の満足度もなにかしらの基準で測定され価格に織り込み済みになるのか。ある種の心理コストを価値の基準として使おうという信用経済の思想と交差する部分がありそう。) 
・プレヒストリーはトレーサビリティを実現する技術を用いて可視化できないか。(具体的な物が関わる贈与において流通情報は「勉強」の補助になるのではないか) 
・金銭による購入はほとんどの場合真に等価交換ではなく、金銭で購入したものは等価交換だっと見做す言語ゲーム的行為なのではないかと思った。(贈与との対比のために余剰がないものとして持ち出されているので論述の都合による問題の気はするが、個々の取引を贈与と等価交換に分別するのではなく、金銭による購入にも価値のゆらぎの余地があり、それが余剰として贈与的になる可能性のほうが「勉強」よりも身近だとおもった。)
・(本筋ではないですが)種として早産であることが集団としての連帯を強化する進化につながったのなら、カンガルー等の有袋類の社会性について興味がわきました。
・贈与という概念は人の交換活動を説明するにあたって一定の説得力はあると思うが、情報学を勉強中の身としては、人の心理過程は情報という観点からできるだけ定量的に評価できてほしいという立場なので、ひとまずは行動経済学等のさらなる発展を期待。
<仕事観について>
ほぼぷーさんです(´・ω・`)
コロナ騒動に伴う大学生への支援に関する意見をツイッターでちらほら見たのですが、文章を読み、文章を書くという行為がなぜ社会的に支えられるべきものなのかというのは、微妙に院進を視野に入れている個人としても重要な問いだなぁと思っているところです。

■12

マッキー
この二日半でいろいろとコメント頂いてありがとうございました。(これからコメントする予定の方もどんどんどうぞ)
良かったら、他の方のコメントにも刺さる部分があればコメントしてみてください。お互いに拡がるものがあれば、それは贈与(っぽい交換?)になるかもしれないです。
それと、
ちょっと、皆さんの感覚を聞いても良いでしょうか?
本書では世の中にある贈与的なものについて大きく①贈与②偽善③自己犠牲に分別して議論しています。
本書内の定義に従えば、ざっくりこんな感じでしょうか。
【贈与】
『不当に』受け取ってしまったことから始まる、相手を変えた反対給付
Cf.親の愛、アンサングヒーロー等
【偽善】
贈与に見せかけた交換
Cf.コスパ重視のボランティア
【自己犠牲】
受け取ることなく、始める無償給付
Cf.ペイフォワードの主人公
実際、これら3つの定義はMECEではないですし、連続的な概念だと思います。
なので、皆さんがこれまでに見たり聞いたり受けたりやったりした行いの中で
①贈与的なモノを挙げる(友人からのプレゼント等なんでも思うモノを)
②それが今思い返すと上記3つのどれに該当するか?
③そう考える理由
ちょっとお付き合いいただけませんでしょうか。
難しく考えずに、気軽にコメント頂ければと思います。
(Aさんなんかはそもそも結構本書とは違う定義をお持ちだとは思いますが、いったんこのアンケートだけ本書の定義に付き合って頂ければ嬉しいです。)
よろしくお願いいたします。

■13

C
①中学の時、塾の先生が無償でやってくれた補講(毎週かなり濃密にやってくれていたので片手間ではなかった)
②今思うと、「偽善」?(あくまで上の定義上の話です)
③無償だということを受講している段階で生徒は知っていたし、後に教えやすくなるという点でも短期的に回収可能なコストだから(偽善とはいえ助かったのは事実ですが)

■14

B
すいません、少し変わり種を。
①高校の頃運動部だったのですが、自分達の代(3年生)の時に私たちは後輩たちを溺愛していました。
②理由が「自分達も先輩達に優しくしてもらっていたから」だと、まさしく贈与だと思うのですが、その実、理由は反対で、「自分たちが先輩達といい思い出がなかったから」から、その反動で後輩には先輩と楽しくいて欲しいという思いからでした。
③そう考えると「自己犠牲」なのかなとも思いますが、なんだか「マイナスの贈与」を受け取ってそれを変換した再給付なのかなとも思いました。

■15

A
①高3の時、体育を中心に授業をさぼっていたが、代返をしたりしてもらっていた。
②代返した人は確かに偽善かもしれないが、他のクラスメートはどうなのだろうか。私に名を知られず教師にチクり自分の株をあげることも可能だったはずだが、39人の生徒は誰もしなかった。彼らは見ることのできない贈与をしていたのだと今となっては思う。
③彼らは沈黙を守ることで見返りを求めていなかったし何より不可能だった。巡り巡っての贈与は一年足らずでは受け取れないだろうし、来たとしても1/39くらい少ない。他にも理由はあるが、私はこれを140年以上母校に流れ続けている贈与の一つが流れ着いたのだと思った。

■16

J
①小学校2年生の時の話(まだ日本の小学校に入りたてで日本語もおぼつかない時期のJ少年の話)
自分の住んでいるとこが外国人の多い地域で、クラスには僕と同じポルトガル語を話せる子が何人かいた。そのうちの一人がつきっきりで通訳したり学校生活に慣れるまでの支援をしてくれた。
②確か彼は先生に言われてやっていたみたいだが、僕にとって彼の支えは間違いなく「贈与」だったと思う。
③僕の学校には通訳のおばさんみたいな人がいたのにも関わらず(主には外国人の親と面談したり外国語での資料を作ったりという業務内容だが)彼は一銭ももらわず、同じクラスで過ごした一年間色々と助けてくれた。見返りを一切求めてこなかったし、自分は日本語を教えているんだからと大きな態度をとられたこともなかった。それにすごく仲良かったし、そういう利害関係なんて考えたこともなかった。オブリガードだぜアミーゴ。
今思ったが、自分の通っていた小学校は大分外国人に暖かかったな~と。たんぽぽ教室なんていう日本語養成クラスみたいなのもあったし、放課後には5,6人の日本語の先生が来ては日本語の基礎とかを教えてくれてたんだぜ?無償かは知らないけど自由参加だったから多分そう。
はぁ、いい機会を得たものだ。自分は贈与なんかとは距離のある人間だと思ってたが甚だ怠慢な野郎なだけであったようだ^^

■17

マッキー
僕もひとつ。
①高校時代、オタクの同級生が僕にしきりに話しかけてきたり、遊びに誘ってきたこと
②今思えば贈与。当時はマジで迷惑にしか感じていなかった。
③僕は高校時代、ラグビーをやっていまして、結構強い高校でもあったのでラグビー部というだけでわりと何というかクラスの中心キャラになるような雰囲気でした。(今思えばそれも思い込み)ところが、高2の途中に眼の怪我により退部しまして、卑屈な精神から部の連中とも喧嘩別れしたため、それ以降、どこからも孤立した気持ちでボッチをしていました。自意識過剰の末路です。そんな時にクラスのいわゆるアニメオタクの同級生が僕に急に馴れ馴れしく話しかけてきました。当時、オタクに偏見を持っていた時期だったのもあり、仲間と思われるのは恥ずかしく、だいぶ失礼な態度をとっていたと思います。でもたまにそいつと雑談したり、そいつが熱く語るオタクネタを聞いたりしていた時間は当時の僕の心を相当軽くしてくれたと思います。今思えば、急にボッチに転落した僕を気にかけて話しかけてくれたような気がします。自意識過剰で痛かった当時の自分よりよっぽどそいつのほうが優しかったし、器の大きな男だったと思います。感謝というか後悔の念が強い思い出です。(編集追記:多少美化している面も否めず)

■18

マッキー
皆さんコメントありがとうございます。
4名の方にこれまで実際に体験した“贈与的な何か”について語っていただきました。
私はそれぞれに非常に印象深い点がありましたが、皆さんはいかがだったでしょうか。
@C さんの例では贈与性を“受け手が知っているか否か”という部分が判断に影響を与えている点を興味深く感じます。
@B さんの例では、まさに自己犠牲と贈与の逆転現象というかその境界面上の出来事なのかなと感じます。いわゆる反面教師とはまた違うのでしょうか。興味深いです。
@A さんは、やはり中々とんがった学生生活だったみたいですね笑。“行わない”という贈与形態を気づかせてもらいました。
@J さんは、よい友人に出会いましたね。その暖かい環境がどうやって作られ、維持されてきたのか興味が湧きます。贈与の永久機関
結局、何を贈与と捉えるのかはその人の感性によってさまざまだと思います。
本著では贈与へのアプローチを示してはいますが、最後は自分なりの価値観・好みの問題であり、その意味で今回のワークショップを機会に自分の考え方のクセ、人の考え方の特徴を知るのは良い機会だと思い、こうした設問を設けてみました。

■19

マッキー
■Last Question
さて、それでは残り2日半ですが、どうしましょう。
せっかくある程度、時間をとって本著を読んでいただいた方にはせっかくですので、本著のエッセンスについてご自身なりの回答を文字表現するというのを本ワークショップのゴールとするのではいかがでしょうか。
もちろん自由に表現していただくことがベストですが、ある程度取っ掛かりがあった方がよいと思いますので、下記の通りとします。
【日曜日20時までにやっていただきたいこと】
下記のいずれかに自分なりの言葉でコメントをお願いします。いっぱいあるので”いずれか”でもちろん結構ですので。
①あなたは、どういった要素があれば、それを贈与と捉えられますか?(例の条件解明的なアレ)
②著者は、他者へ贈与をすることでしか“生きがい・やりがい”は生まれないと言います。はたしてそうでしょうか?(異論大歓迎です)
③この世界を説明する眼鏡としての本著の論法、あなたのお口に合いましたでしょうか?またその理由を教えてください。(ご自身の価値観のメガネについてもさらっと触れていただけると嬉しいです。)
ついでにこちらもお手すきの際にでも・・・
④その世界の常識を知るには同じ言語ゲームに参加して沢山の時間を過ごす必要があると著者は言います。では、まだ言語ゲームが確立していないこのコミュニティはどうでしょうか。これから先、どんなルールのゲームになってほしいですか?
(言いたいことを何でも言える、なんか書けばバチバチ反論が来るorすごい同意される・・etc) 

■20

C
自分の今までの価値観は「真の善い行いは存在しない.結局何かしらの見返り(名誉とか多幸感とか)を得るために善い(っぽい)行いをするのだ.」という価値観でした.この本を読んでいる最中は自分とは違う価値観を前提しているなぁと感じながら読んでいたのですが,よく考えてみると「負い目(マイナス)を感じている状況から脱するために贈与という行動が行われる」つまり「贈与は精神的な状況をマイナスから0に戻そうとする行為だ」という主張は,精神的状態の向上を指向している点において解釈次第では自分の価値観と両立可能なものなのではないかと思い至りました.なので大枠はすんなり受け入れられました.ただ「生きがいや生きる意味は贈与の結果としてしか生まれないよね〜」という主張には価値観の押しつけのようなものを少し感じてしまいました.『「生きがい」とか「生きる意味」をこういう文脈で使うことで定義します』という筆者の言語ゲームと自分の言語ゲームが異なるからなのだろうと思いますが,まだ若造なので,自己完結する「生きがい」に当人が満足していればそれでいいじゃないかと反骨心を抱いてしまいました.
自分としてはこのコミュニティでは「お堅いこともくだらないことも,大真面目に何かをやることが馬鹿にされない」価値観が前提となればいいなと思います.

■21

B
・生きがいが贈与からしか生まれないという話
なんというか、人間が社会的である以上は、究極的に望むことは「社会とつながっていたい」なのではないかと個人的には思います。「交換(お金によってもよらなくても)」は契約ですから、ある程度自分と社会を繋いでくれますけど、契約が終わればそれっきり。これに対して、贈与はそれこそ呪いのように、相手を強力に縛る力があります。もしくは、「贈与の連鎖」を生んで、自分の行為が起点となって、自分の「想い」的な何かが社会をずっと巡っていくことになります。そういった意味で、作者の主張はそうなのかなと思いました。
・このコミュニティに求めること
昔所長がどこかで書いていた(言っていた?)コミュニティの「ギブアンドギブ」の精神は、本書でいう「贈与」なのかはわからないですが、少なくとも「交換」ではないと思います。今の世知辛い世の中では、「テイク」を前提としないギブはなかなか敷居が高いかもしれませんが、どんなメンバーも気軽にギブ出来るようなルールがあればと思います

■22

K
・社会における交換のありかたに関してモースの贈与論、柄谷行人の交換様式の議論を読んだふりしている程度だったので^^;、贈与という言葉に対する個人的な考えは特にありませんでした。そのうえで筆者の定義を自分なりに言い換えると、贈与とは(怨)念のこもったプレゼントといえるかなと思いました。物や行為がそれかぎりのものなるためにこめられる思いが、その受け渡しの文脈とあいまって呪いになりうるという点が贈与の正の面より気になってしまう性分のようです。念が怨念となってしまうコミュニケーション不全の仕組みをもっと掘り下げてほしかったです。(^o^)
・個人的には、社会にとって必要不可欠なものこそ、持続可能に供給するために、贈与というリターンが不確定な形ではなく、交換可能なかたちになって資本主義に組み込まれるのが自然だと思います。
そのため、他者への贈与でしか生きがい・やりがいは生まれないという点に関しては、筆者の定義では贈与は自分が受けた利益の不当性を感じることから始まるがその瞬間は心理的負担でしかなく、一見情が入り込む余地のない等価交換の世界は過去贈与的だったものがその有益さのために整備されたものなので、仕事等で等価交換の世界の一部になるだけでも社会的に役立っていると感じられることが精神衛生上はいいと思いました。
また、生きがい・やりがいを規範的に決めてしまうことは、贈与的であろうとするあまり個別の経験から離れて現在の自分の不当性を感じ続けることにつながり、それは贈与へ気づくための開かれた態度とは相性が悪いのではないかと感じます。
これは自分自身が自罰的思考に陥りやすい事によるバイアスもあると思います。
・本書全体の議論については、そもそも哲学者とはそういうものなのかもしれないのですが、社会システムの分析をするにあたって定性的な議論に終止している点が、共感はしても説得力はあまり感じないという感想でした。
加えて、本文の特に後半部分から、交換の世界が本来もっているであろう贈与性が(意図的に?)無視され、本文中の資本主義のすきまとしての贈与という視点と一致しないであろうという違和感を持ち続けて読解していました。
・コミュニティについて
顔文字(*^^*)がゲームのルールとして確立される日はくるのでしょうか!?!?!(^o^)(´・ω・`)^^;
以上遅くなりましたがまとめのコメントになります。m(__)m

■23

マッキー
■締め(おつかれさまでした!)
本当はもっと皆さんの意見に突っ込んでいろいろと聞いてみたいところですが、時間も過ぎてますので今回のワークショップはここで締めたいと思います。皆さんお疲れさまでした。そして積極的にコメント頂いた皆さん。ありがとうございました。(ほんとにありがとうございました)
本書の世界観はいかがだったでしょうか?
お口に合う合わないは有ったかと思いますが、本ワークショップが皆さんにとって何らかのメリットをもたらしてくれば嬉しいです。
私自身は、普段よりたくさんコメントをすることで、普段使わない方向の頭を使う良い訓練になりました笑
私の本書に対する意見もごく簡単にですが、述べておきます。
それではみなさまお疲れさまでした。

マッキー
本書は “受け取ることから始まる贈与”の概念を提示しました。そして、贈与と交換の違いを明確にしながらも、贈与を交換社会におけるアノマリーと見なすことで、逆説的に贈与と交換つまり資本主義が共存可能であることを示しました。また、こうした模型に言語ゲームの概念を取り入れることで、交換社会における贈与の位置づけをクリアにするだけでなく、私たちは贈与への気づきを通して自らの世界を変えていける生き物なんだという希望をもたらしてくれます。明快でさわやかな読後感がある本でした。買って損はなかったと思います。
 ただ、あまりエキサイティングな内容ではなかったというのも正直なところです。新しく得るものはあまりありませんでした。 “既にある思想”の綺麗な寄席木細工ではあるが、新しい何かを提示するものではないと思います。
 また、贈与という概念についても気になる事がひとつ。本書では贈与を偽善とは明確に峻別しながらも、負債の負い目からの相手を変えた反対給付であるという定義は容認しています。広義の意味で交換の一形態とも言えます。(Cさんと似た感想かも)だからこそ、受け取らない贈与を自己犠牲と表現し、贈与と区別しているわけですが、こうした贈与の定義自体、特殊というか掘り下げるべき対象であると感じます。資本主義と贈与との間の美しい方程式を叙述するために、逆算的に種々の言葉をアドホックに定義づけしている印象を持ってしまいました。
 何を贈与と感じるかはその人次第です。そして贈与によって得るものも人により様々でしょう。そうした議論を展開する上で大事な前提に対してもう少し自覚的(と感じられる)文表現にしてくれた方が私は安心して読めました。
 最後に、資本主義との関係について。資本主義は近年、自己増殖を続け暴走しているとの認識があります。私もその認識です。常に変化し、まさにメルトダウンに近づきつつある資本主義に対して、本書の提示する贈与の枠組みは余りに”静的”な写真に見えてしまいます。そうした動的関係性は本書の述べる範囲ではないのだともいますが。これは私なりの今後の課題です。

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