春の小川

お題:春の小川さん

私は、私が嫌いだ。
誰が聞いても冗談としか思えない名前もその理由の一つ。

 名前を知れば誰もがあの歌を連想せずにはいられないことは、今では理解しているにしても、同級生にからかわれたと家に帰って両親に訴えたところで自分達では良かれと思って付けた名前を今更否定もできない彼らには取り合っては貰えず、小学校の低学年の頃には既に「何を言われても気にしない」ふりをすることでしか、自分を護る術はないのだと思い知らされていた。

 そんな話とは一切関係なく、私が今日に限っていつもより随分と早く学校に来たのは、昨日は疲れていたせいか夕食後にすぐ寝てしまったためにできなかった宿題を授業前に済ませるためだった。随分暖かくなり、朝早くでもそれほど寒さは感じない。校門から昇降口を抜け、階段を登って教室まで。通い慣れた通路も朝早くとあって人通りがなく静かだった、と、教室に近づくにつれて聞こえてきたのは……歌声?まさに今向かっている教室から。

 教室の扉を開けて中に入る。朝の教室から響くその歌声は、ただれそだけのことをためらわせるのに十分だった。邪魔をしたくない。もっと聞いていたい。季節柄選んだのだろうか、桜を歌ったらしい歌詞と、なによりもそのソプラノが、私にそう思わせた。リズムよく、よく伸び、なによりも、歌うことを楽しんでいる歌声に、ふと違和感を覚える。この声はいったい誰だろうか?もちろん、クラス全員の声をそれほど深く聴きこんだことはないのであるが、それにしても、この声は……

 気が済んだのだろうか、歌が一段落したところで意を決して教室の扉を開けると違和感の正体はすぐに分かった。ソプラノではなかったのだ。いや、ソプラノではあるのだが……振り返った顔を見て、さて名前はなんだったかと懸命に思い出そうとしながら声をかける。
「おはよう。歌、うまいんだね。いつも歌ってるの?」

「ありがとう……歌、好きなんだ」
 いつもは誰かが登校してくる前に終わらせているのだろうか。恥ずかしそうに目を伏せたまま、先ほどまでの歌声とは比べ物にならないほど小さな声で返ってきた。

 未だに名前も思い出せない彼は、クラスの男子の中でも取り立てて目立つ存在ではなかった。頭が悪いわけではないと思うが、さりとて学業優秀とまではいかず、運痴ではないにしろ体育の授業で目立って女子からの声援を受けるほどでもなく、それほど体格に恵まれてもおらず、活発なタイプでもなかった。音楽の授業の時も、それほど張り切って声を張り上げることもなかったはずだ。さて、どうしよう?といってもこちらはやることをやらないと……

「もしかして、邪魔しちゃったかな?私、宿題やるから気にしないで続けて」
 むしろ私としては、続けて欲しかったのだが
「いや、今日はもう……そろそろみんな来るだろうし」
 宿題の準備をしていた私に、彼は続けて声をかけてきた。

「あの……」
「なに?」
 つくづく残念だ。明日また早く来れば、彼に歌声を聴けるのだろうか?しかし私が聞いていると知れば彼は歌うことをやめてしまうかもしれないが……
「宿題、僕も一緒に……ダメかな?」
 消え入りそうな声で言う彼に、思わず吹き出しそうになる。
「いいよ、一緒にやろう!」

嬉しそうに準備を始める彼を見て思う。

私は、私が嫌いだ。
誰が聞いても冗談としか思えない名前も
その理由の一つなのだけれど。
だけど彼になら。

この声になら、名前を呼んでもらってもいいかもしれない。


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