ナオミのパラシャ ナソ(調べる) ナジル人について 民数記6:2-3
ここでは、ナジル人について、書かれています。
ユダヤ教の一般的なナジル人の解釈とナオミさんの解釈には、共通点と相違点がありました。
ナジル人の動機
一般的解釈:ナジル人は、神への献身と従順を示すために誓願を立てる。
ナオミの解釈:ナジル人は、必ずしも神の意図に沿ったものではなく、自分自ら選択してこの生活に入る。罪の捧げ物の意味
一般的解釈:罪の捧げ物は、ナジル人の誓願期間中に起こった偶発的な汚れを清めるためのもの。
ナオミの解釈:罪の捧げ物は、ナジル人の生き方自体が罪であったことを認めるものである。社会生活との関係
一般的解釈:ナジル人の生き方は、社会生活とは別の特別な奉仕の形態として受け入れられる。
ナオミの解釈:ナジル人の生き方は、神が意図する社会生活から逸脱したものであり、本来の姿ではない。神は、私達に家族と一緒にいて、喜びと苦労を共にするものとして創造している。
一般的なユダヤ教の解釈では、ナジル人は敬虔な信仰者の模範とされることが多いですが、ナオミさんは、そこに人間の自己中心性や神の意図との乖離を見出しているものでした。
ナジル人の例は、旧約聖書で、サムソンが挙げられます。ここでは、神様が彼に導きを与えていると参加者からの指摘がありました。
また、他の参加者からは。新約聖書でナジル人として言及されているのは、バプテスマのヨハネについての紹介がありました。
ここで、ヨハネについて「ぶどう酒も強い酒も飲まない」と言及されています。これはナジル人の特徴の一つです。
これは、ヨハネが禁欲的な生活を送っていたことを示唆しています。
ナオミによると、冒頭に挙げた民数記. 6:2にある、「主のものとして身を聖別するため特別な誓い」にある、特別という言葉は、יַפְלִא֙ ヤフェリで、「とても言葉にできないような現実離れしたこと」という意味だそうで、現代でも使われています。
יַפְלִא֙ ヤフェリは、創世記18:14では不可能、出エジプト2:20不思議、レビ17:8難しい、などと翻訳されています。
ヨハネは、イエスの到来を预备するために遣わされた預言者であり、その生き方はナジル人の誓願に通じるものがあります。
なぜ、ナジル人はぶどうに関するものを食べてはいけないという律法を与えられたのでしょうか? 新約聖書では、イエス様がしばしば自分自身をぶどうの木に例えています。クリスチャンはイエス様につながっていなければ、霊的な実を結ぶことができません。
ぶどうの木とその枝の比喩からは、クリスチャンがキリスト様につながることの重要性が示されています。ナジル人は、自分自身をぶどうの枝に見立て、神というぶどうの木につながることを何よりも大切にしたのかもしれません。また、ぶどうの木である次に来られる方を待ち望んだからこそ、ぶどうを口にしなかったのかもしれません。皆さんは、どう思われますか?
ナオミの解説は、トーラーを社会的・道徳的モラルに照らし合わせて、批判的に解説してくれているようですが、だからこそ、私達は、深く考えさせられ、新約聖書における神様のあり得ないようなご計画や見えない理解が深まるように思います。いつもとても興味深くバイブルスタディに参加させていただいています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?