見出し画像

その耳は遠く、目はつぶっている

今回のオフィルとのバイブルスタディでは、コアなところに触れることができて、私は恵まれました。しかし、新約聖書は、ユダヤ人に対して厳しいことが多いです。イエス様も全てたとえでお話をして、弟子には教えましたが、群衆には答えも言いませんでした。そうするべき理由を今回私も感じることができました。この解釈をユダヤ人としてどう思うのだろう、という期待と葛藤を持ちながら、お話したのが今回でした。

オフィル:マタイ13章で、種のたとえでイエスは群衆に何を話したかったのですか?

和恵:なるほど、良い質問ですね。話の続きで、これはだれのことを話していると思いますか?

Matt. 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。

オフィル(小さい声で苦笑いしながら):イエス。。。。かな?

和恵:さすがオフィル、頭良い。笑 でも、オフィルに質問されるまで、種は御言葉だと思っていたのですが、ここで種はイエス様お一人とも解釈できそうですね。

Luke 8:11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。

オフィル:ではこの引用は誰のことを語っていて、どういう意味なのですか?

Matt 13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。 15  この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

和恵:ユダヤ人はイエス様が、メシアだと分からなかったよね。それは、全世界の異邦人に福音が伝えられるまで、ユダヤ人はそれに目をつぶらされて待っていなければならなかったのよ。それは神様のご計画だったの。

オフィル:それは、以前にも少し聞きました。では、目が見えない、耳が聞こえない人は、私達ユダヤ人のことなんですね。。。

Is 6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』 10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」 11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、 12【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。 13  そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。 しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

和恵:イザヤの引用を見ると、目が開かれる時があって、聖なる切り株があるとありますね。これは、だれのことでしょうか?イエス様?オフィルのことでもあるよね。だから、それが、今で、オフィル自身が目や耳が開かれるように選ばれたと思わない?

オフィル:まだよくわからないけど、この流れだとそうかも知れないです。

和恵:種は創世記で出てきます。罪のために地は呪われますね。

オフィル:種が成長するための地が呪われたので、神様の言葉を食べるのに苦労するようになったということですね。

和恵:そのとおりです。だから、新約の最後には実が成るようになったとあるですよ。

Rev. 22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 3 もはや、のろわれるものは何もない。

オフィル:イエス様のお陰で、地の呪いが解けて、癒やされるというのは、ちょっと変な感じです。何が変だとは表現できませんが。

Matt13:57 こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」 58 そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。

和恵:イエス様はイスラエルで受け入れられなかったし、今もまだその状態は続いていますね。オフィルがそれを今信じられなくても、当然ですね。多分、2−30年後ぐらいには、イスラエルのみんなが新約を当たり前に読んでいると思うから、オフィルは、アーリーバード(早起き鳥)なんだよね。ちなみに、今日読んだ聖書の箇所で、印象に残ったところはどこですか?

オフィル:目があっても見えないかな。私は、冷蔵庫の中のどこに牛乳があるのに、探せなかったの。お母さんに聞くと、ここにあるわよ、と言って、詩篇115編をいつも口ずさんていた。それと一緒ですか?

ps 115:3 私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。 4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。 5 口があっても語れず、目があっても見えない。 6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。 7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。 8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。

和恵:これは、偶像の話みたい。笑

オフィル:そうね、違う意味で使われているから、関係無い。笑

和恵:さすが、ユダヤ人の家庭って、冗談をいうのも御言葉なのね。お父さんの子守唄も、詩篇だったよね。

和恵後記:以前、ユダヤ人はこの目が見えていない、という節を見せた時に、これがユダヤ人ならすごく侮辱していると言われたことがあります。イエス様がたとえでしか話して、相手の器の分だけ理解するようにしたのは、配慮の上であることが腑に落ちました。

オフィルは、群衆に対するイエス様の対応や、群衆の反応が面白いと言います。イエス様のお話を直接聞くのは、弟子のようにある程度の時間の経過とコミットが必要ですし、恵みと愛が注がれていないといけないのだと今回も思いました。クリスチャンになるわけではない、また心の傷が多いユダヤ人には、関わる私達の愛、謙遜さ、霊性が本当に問われると今回も思いました。でも、オフィルに新約に核心をお話できるのは、本当に大きな恵みです。オフィルが更に悟りが与えられるように、聖霊様が望まれるように、どうぞお祈りください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?