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Matt10:14 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。 15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。

オムリ:ソドムとゴモラの話を8歳の時に読み、自分の町がこうなったらと思い、とても怖くなりました。今でも、怖くなります。イエスを受け入れないとこのようなことが起こるというのは、愛があるのか、ないのか、わかりませんが。

Matt10:13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。

オムリ:この13節で、ふさわしい、ふさわしくないの基準で言うと、前の9章10−13節で、取税人や罪人たちとイエスは一緒にいた、ということを思い出します。ですから、社会の高い地位についている人や祭司よりも、イエスは、貧しかったり、病気だったりする人たちと、共に座ったのですね。加えて、これは、「歓迎してくれる人とともに座りなさい。」ということが言えると思います。

和恵:質問:もしオムリがイエスだったら、どう行動しますか?

オムリ:難しいですね。薬物中毒の人たちのことを思いますが、彼らに全てを与えてあげることはできます。しかし、変わろうとしているのなら、彼らとともに過ごすことを願うでしょうが、彼らが、変わろうとしないのなら、彼らとともに過ごすことに意味はあるのでしょうか?このことから、「必要のある人のところに行きなさい。」ということが言えますね。

Matt. 10:6 イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

和恵:そうでうすね。7節の「イスラエルの失われた羊」、はヒントになりますね。どんな人がメシアを必要とするでしょう?自分で自分を助けることができない人が、神に望みを持ちますね。もう神しか自分を救うことができると知っているからです。この世や人が与えることができることには、限界があります。ですから、その神の救いを必要としている人にご自身を表していくというのが、イエス様のやり方なんですね。

オムリ:なるほど、一貫していて、とても興味深いです。イスラエルの当時のラビ達の行動とは違うことが、ここでもわかりますね。

追記
来週、再来週はオムリ自身の結婚式だそうです。オムリは結婚式を楽しみにして、花嫁を迎える花婿としての喜びで湧き上がっていました。

トップの写真は、オムリの家の窓から見える、仮庵です。

by井村光志

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