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イエス様は三十シェケル

マタイの福音書2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。
これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。

梅:彼はナザレ人と呼ばれると書いてある旧約聖書の箇所が見つからないのですが、アビガエルはどこにこれが書いてあると思いますか?

アビガエル:ユダヤ人のラビが書いたものですが、こんな記事を見つけました。

ゼカリヤ11:13 【主】は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。13 וַיֹּ֨אמֶר יְהוָ֜ה אֵלַ֗י הַשְׁלִיכֵ֙הוּ֙ אֶל־הַיּוֹצֵ֔ר אֶ֣דֶר הַיְקָ֔ר אֲשֶׁ֥ר יָקַ֖רְתִּי מֵֽעֲלֵיהֶ֑ם וָֽאֶקְחָה֙ שְׁלֹשִׁ֣ים הַכֶּ֔סֶף וָאַשְׁלִ֥יךְ אֹת֛וֹ בֵּ֥ית יְהוָ֖ה אֶל־הַיּוֹצֵֽר׃

陶器師 היוצר の翻訳が間違っている可能性があります。陶器師と翻訳されているהיוצר言葉は、יצר (H3334)"形を変える"です。言葉の頭にהがついているので、theがついています。だから、"形を変える人"として、陶器師と翻訳されたのだと思います。

נצר( h3479) は守るです。これが、マタイの2:23で使われているナザレという言葉の由来で、態によって違いますが、何かを大事にする、守る、子孫、という意味です。

この言葉は、未完了形3人称男性単数になると、ינצרですが、נは落ちて短縮されるのでיצרとなります。すると、陶器師の語根と同じになります。ですから、ゼカリヤでは、היוצרは、"陶器師"ではなくて"守る人"という言葉であった可能性もある、と書いてあります。

和恵:前後の文脈を見ると、陶器師でも守る人でも意味は通じるような来がします。守る人は羊飼いを想像させます。するとやはり、元々の陶器師も、アビガエルが教えてくれた守る人もイエス様をイメージできないでしょうか?そして、ゼカリヤの、銀三十、宮の陶器師、とあるので、この節を思い出します。

Matt. 27:2 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。 3   そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、 4 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。 5 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。

アビガエル:イスカリオテのユダの自殺は悲しいですね。加えて後悔している人に自分で始末しろとは、冷酷な言葉です。ユダヤ教では自殺した人は天国にいけません。

梅:30シェケルは、奴隷の値段なんですよ。

Ex. 21:32 もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。

アビガエル:ということは、奴隷が三十シェケルの価値だったから、イスカリオテのユダは三十シェケル支払って、イエス様を買い取ったということですか?イエス様の値段を奴隷と同じ金額をつけたとは驚きです。それが、ゼカリヤにも書いてあるということなんですか?

ユダヤ教では、良い行い(ミツバー(単数)、ミツボット(複数))と罪とのバランスシートがあります。へシュボンネフェシュと言います。ユダヤ教では、ミツボットを行うことで、罪の贖いをします。お金を寄付することもミツボットの一つです。しかし、キリスト教では、イエス様が罪を取り除いたので、ミツボットはいらないということですね。イエス様の命は、ミツボットとと同じ価値があり、それが三十シェケルだったということですね。イエス様が三十シェケルだったということに本当に驚きました。

梅:アビガエルは、教えられるのがあまり好きではないのですが、質問するとその場で色々調べてくれます。ナザレの語源であるנצר守る人היוצר陶器師の関係に導かれるまま、聖書を開いていったのですが、とても意味深い学びになり、今回も驚かされました。

by 和恵

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