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契約による割礼、聖霊による割礼

Rom. 4:13   というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。

オメルは「信仰による義」だけでなく「契約による義」の重要性を示し、「ユダヤ人は、神から契約をもらい、それを信じたことが義とされる。その後に証印を押されたことが割礼です。」と言いました。アブラハム契約はユダヤ人とだけ結ばれたものだから、異邦人はアブラハム契約の下にはいない、ということなのです。

Rom. 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。 29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

私は、選民として至極当然の考え方だと思っていたところ、この御言葉を分かち合うと、彼は「でもイスラムもユダヤも肉体的に割礼を受けないといけないと思っているのに、クリスチャンは心に割礼を受けるというのが面白い。」と言われ、その柔軟さに驚きました。

Rom. 5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

「この箇所は救いの重要性がハイライトされていて好き。ユダヤ教には罰がたくさん出てくるが、ヨム・キプールがあるし、罪と救いは両方存在している。」との言葉に感動しました。私は「キプールはカフェル(覆う)であり、クリスチャンはイエス様が私達の罪を覆ってくたさったと信じています。」と伝えたところ、納得してくれたようでした。

この学びを通して、ユダヤ人と新約のみことばを共有していくことの素晴らしさを感じました。また彼らの感性の豊かさに驚かされ、隔ての壁が取り除かれていることを感じました。

by ならめぐ

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