切り倒してはならない。
Deut. 20:19 長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。 20 ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。
アビガエル:「木を切ってはいけない」という箇所はユダヤ人の中でも有名で、自分も好きです。戦争をしても木を切ってはいけないでのすよ。
和恵:それは面白い律法ですね、これは、マタイに出てくる実を結ばない木のたとえと関連しているかもしれませんね。
Matt. 3 :10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
Matt. 7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
Matt. 21 :19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
和恵:このたとえ話から、木は人を表しているということがわかりますね。イエス様は実がならない木を枯らしてしまいますが、グッド・ニュースもあります。このようにイエス様はお話されました。
John 15 :2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
アビガエル:イエス様につながらなければ、実がならない、というのは、決定論的*で、好きになれませんね。
和恵:でも、必ず実がなると保証されているのであれば、それは良いことではないでしょうか?多くの人は信じたら良い実がなるということを信じることができないのは残念なことですね。
アビガエル:なるほど。では、新約聖書には木のたとえがこんなに多いのはなぜですか?
和恵:創世記のいのちの木が、イエス様だと考えてみたらどうでしょう。永遠に生きないようにと言われた神様と、私を食べれば永遠に生きると言われたイエス様に、いのちの木がつながっていると思いませんか?
アビガエル:なるほど、そういうことなのですね。木を切ってはいけない、ということが、ただの律法だけにとどまらない、いのちの木につながるとは驚きました。
*決定論:自然や歴史の諸現象の生起は,外的な原因(神・自然・因果性・社会関係など)によって究極的に規定されているとする考え。人間の意志・責任や行為の意義については否定的になる傾向がみられる。
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