3年の短くてすごい長い夏

自分たちの予選を見事に敗退で飾り、代田橋で程よく強がりと前向きなコメントと悔しさを発表して、すぐにみんながネタ練りをしている家に向かった。

Forever小林のネタは先輩方の支えもあってほとんど完璧に面白かった。

それでもネタ練りに向かったのは、MOTHERで戦った仲間に自分の悔しさと戦いを全て直接託したかったからだと思う。

後輩たちは少し気まづそうにしていた。
最後の夏負けたデスコさん。
かける言葉なんて、何事もなかったかのような当たり障りのないことしかなかったと思う。
それが何より心を締め付けるくらい辛かった。

こんな思いは来年8期にはしてほしくない。
そしてこのあと同期にはしてほしくなかった。

Forever小林は笑顔で俺を迎えた。
「まぁ俺が上がるから」
いつもの調子で、
みんなに支えられているくせに
いや
みんなに支えられているから言えた言葉なんだろうな

翌日、
客席で見守る中、彼は上がらなかった。
彼こそ最後の大会と的を絞って戦ってた。辛さはわかる。

頼む7期よ。勝ってくれ。
この夏7期が勝てなかったら、
ほんとに俺らは面白くない、何も証明ができない期になっちまう。
辛かったことが辛かっただけで終わっちゃう。

この辺りから僕らは福光祭に出かけた。
この福光祭はとんでもなく楽しかった。大好きな後輩たちと合宿ほどお笑いの強迫観念のない旅行。あの2泊3日は一瞬一瞬がすごいいい思い出になってる。男演者全員で噴水に飛び込んで、他団体の人に引かれたこともいい思い出だ。
夜になれば電話でヤマアラシのネタ練り。
MOTHERはヤマアラシに託すしかなかったからね。

福光祭の最終日がヤマアラシの出番だった。

八王子に着く時間を考えるとその日は見に行くことができなかった。

ただバスの中で健闘を祈ることしかできない。

長旅を終え、八王子につき、家に帰る。
しばらくすると芸会のTwitterの通知。

敗者復活戦進出組
3位 創価大学落語研究会

青春パンぷキン

ヤマアラシじゃなかった。
最初の通知をみて、青春パンぷキンやったな!よりもヤマアラシじゃない。って感じた僕は部長失格かもしれない。それどころか落研部員として終わってるのかもしれない。

でもそんな綺麗事はやめたい。
初めて人の勝利をこんなに望んだことがなかった。人と戦う。誰かの勝ちが自分の勝ちになることを教えてくれた仲間が負けた。
僕は家で一人泣いた。

あとから聞いたら、予選の後さんぽうの体は限界を迎え、そのままタクシーで帰ったりするなど身も心もボロボロの状態でやってくれていたんだ。

でも芸会はそんなことは知らない。
勝たなきゃストーリーにはしてくれない。
負けたら不幸は不幸のまま終わる。
勝てば全てがサクセスストーリーになる。
大学芸会ほど忖度なく、勝ち負けを出してくれる大会が中心にあったから、僕の落研人生は張り合いがあったのだと思う。

かける言葉が分からなくて、今日はとりあえず休んでくれ みたいなことを送った気がする。

残すはボトルドとオオモリジャパン。
この2組の日は翌日に合同コントで出る予定だったからネタ練りで見にいけなかった。

けどオオモリジャパンの大仕掛けは方南会館歴代最高の瞬間風速を起こして勝ち上がった。
らしい

通知を見てホッとした。自分が手伝ったネタだからじゃない。
オオモリだから
47期だから
同期だから

今年の夏の戦いは大森がつないでくれた。
絶対に勝たせようと
オオモリジャパンを提案してから思った一年の夏から2年越しに思いが届いた。

その翌日九龍城で僕がデブ眼鏡賞をダブル受賞した話は、今振り返れば大した出来事にならなかった。

やっと最後の夏、前半戦が終わった。
それぞれの悔しさを次の戦いのバネして。

夏学から冬の団体戦まで、勝てるルートは見えた。準備は万端だ。ほんとに最後の最後の戦いに向けて出発しよう。


『ん?急に”話”ってなんだ?』

この数時間後僕が見ていた光は一瞬にして真っ黒に塗りつぶされていた。

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