2年の新歓の時に遡ります

最近noteをちょくちょく書くようになったのには実は理由があって、自分の頭の中にあるいろんな感想とか考えとかぐちゃぐちゃに混ざって、こんがらがるものを吐き出す場所を作りたいと思ってやりだした。

あと、自分という人間がどういうことを考えてるとかを知ってもらって興味を持ってもらってあわよくば好きになってもらって、あわよくばこの人と話したい食事誘ってみるかとなり、あわよくばその先も何かあればと思って始めた。

結論、書き出して自分という人間の汚い部分や弱い部分、痛い部分しか露呈していないように思える。
こんなnoteを読んでも、ま第一に読んでくれている人間がどれくらいいるのかわからないけど
読んでくれたとしても、こいつなんかめんどくさいし気持ち悪いなって思うかもしれない。
まぁそうなったら仕方ないですかね

でも日々頭がパンクしそうになるので、書きます。誰も求めてなくても。すごい芸人として売れたら、このnoteを消し去る気はするけど

最近自分の中で整理がついて、わかったこと。

僕は
”面白いことが好き”

なのではなく

“つまらないことが嫌い”

ということだった。
これの違いはすごい歴然で

“面白いことが好き”
という人間は常に面白いこと、つもり+のものを探し、周りに提供することに全力な人だと思う。

“つまらないことが嫌い”
という人間は、自分からなにか面白いことを提供するのではなく、周りが面白いとそれぞれの価値観を持って発信したものを、自分の身勝手な価値観を持って否定し、蔑む。

似ているようで全くもって真逆の性質だと思う。

面白いことが好き≠つまらないことが嫌い

前述したように僕は後者なのです。
前述とか後者とか使うと頭いいっぽいっしょ

つまり自分がすごく最低な奴だということが判明したわけ。こりゃあ認めがたい事実でしたよ
だから認めてないんですけどね。
人に言われたわけでもなく、自分で自分を判断しただけなのに認めてないんですけどね。

なんか感じの悪い尖った芸人ってたぶん”つまらないことが嫌い”なだけの人達なんだと思う。
だから自分がそんな人間になるのが今すごく怖い。だから落研で頑張った気がする。

後輩ができた時、1年生の尖り切っていた時から、自分の心をどこか変えたくて
8期(一個後輩)が入ってきたら全ての人間の面白いところを見つけて言葉に出してあげられる先輩になろうと決めていた。
後輩にそうしてあげるには
自分に圧倒的に自信と実力がないといけない。その理由は
①面白さを見出してくれる先輩がつまらなかったらその後輩はなんの自信にもならないから
②後輩に実力で劣ったりしたら、嫉妬が先行し素直に後輩を評価できなくなるから
③そもそも面白みを見つけ出す感性が身につかないから
だから新歓ライブ諸事情あってピンになったけど、死に物狂いで面白い人であり続けようとした。おかげで僕を3年生と勘違いしてくれていた人も居たので嬉しかった。

そうして入ってきた48期を僕はひたすら褒めたと思う。もちろんそれだけのポテンシャルがあの子らにはあったんだが、少なからず意識的にも褒めていたと思う。
まぁきつく言われたとか褒められたことないたか厳しくされたとか、あんま好きじゃないとか、っていうか嫌いだし、は?っていう人がいたらまた個別で連絡してください。僕は心を閉します。

そんなこんなで後輩に対して接する軸はこういう考えから出来たと
人のつまらないところを探し続ける最低な人間より、人の面白いところを探して笑ってあげられる人になった方がいいと思ったから
後輩の登場で僕をそう変えてくれました。
3年生の時に言い続けていた。
面白くない人はいないっていう言葉の真意をたぶん自分に忘れないように言い聞かせていた部分もあるのかもしれない。

後輩とも同期とも、そもそも人と会わずにインプットだけのこの期間に少しずつ良くない”つまらないことが嫌い”人間にまた成長していたのだと思う。

このnoteを書くことによって、後輩ができたあの時のことを思い出して、自分が今クズなんだと吐き出して、少しずつまた面白いことを探す人になろうと思います。

なんか真面目につらつらと長々書き過ぎてしまったので


うんち

という感じで今日は終わります。


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