2年NOROSHI直前の話

ここまで書いてきて、すごい悔しかったっていうのをたくさん書いてるけど、それがなんで悔しいのかは先輩が築いてきた落研を自分が壊しちゃう気がすごくして、責任を感じてたのと、

なにより日本一に向かって出さなきゃいけない結果が出せないのがとにかく悔しかったから。
日本一に近づけないのがしんどかった。

こう言っても、じゃあなんでそれほどまでに日本一取りたいの?って話になるわけだが、それは無論、負けるより勝った方がみんなが喜ぶから。
まぁそりゃあ落研を勝たせたいとか、創価を勝たせたいっていう気持ちもすごくある。なにより自分をここまで強くして期待を寄せてくれたかっこいい先輩たちが果たせなかった思いを受け取ってるつもりだし、一代一代それを後輩に繋げなかったら、10年後に落研は無くなってしまうと思う。だから落研で活動する以上、日本一を取るという思いはぶらしちゃいけない。たとえ、どんなに苦しくても日本一を取らなくてもいいというのは極論逃げの発想。取らないより取った方が絶対いいもん。
そして部長になった以上、その思いが1番強くないといけないし、なにより自分が勝ちたい以上にこの団体を日本一にするっていう思いが先輩は強かったのを見てきたから、僕もそうなりたかった。
ただ僕の持論、というか僕の代でいうと、自分が引っ張って日本一まで持っていく人であらなきゃいけなかった。

だから僕が すべってたり失敗して 悔しがっている真意をわかってほしい。
ただ自己承認欲求が満たされず駄々をこねているわけではないんだ。

ここから振り返りです

人並みに年末年始、先輩や後輩と遊んで明けた2019年。
学生M-1と冬学の結果は自分たちが築き上げた漫才が間違っていたと伝えるかのようだった。

そんな最中、年始早々にダイソンウェイパーの佐坂さんが主催する学生お笑いの年始ライブに呼んでいただいた。
メンツを見ても明らかに面白い当時のトップが集められていた。
僕たちは正直出たくなかった。学生M-1でセミファイナリスト(なんだセミファイナリストって普通ファイナリストって名乗らせろよ)だったとはいえ、そこでボコボコにすべってるし、どんな漫才を持っていけばいいかわからなかった。

僕らは悩みに悩んで、
コンビを組んで初めて、ツッコミとボケを交換した。僕がボケで相方がツッコミ。

今まで僕がツッコミでコント漫才をやってきていたけど、これがウケないなら先のことを見据えても、このタイミングがスタイルを変える最後のチャンスだと思い真逆のネタを作ってみた。
しゃべくり漫才で僕がボケる。相方は無難に関西弁でずっと突っ込んでた。
本来の2人の気質で言うとこっちであるから、ネタ練りやネタ合わせ中は楽しかった。
ネタ合わせ中に「お前すごいアドリブするやん」って言われたのは地味に嬉しかった。(このネタ合わせの経験は3年時相方が多少アドリブをしてくれるようになるきっかけになる)

本番前になると楽屋には憧れの先輩や面白いと思ってる同期しかいなかった。ダイソンに紹介され、大学お笑いで1番憧れの テキセツの街 に挨拶させてもらえた。僕も相方も共通して目指すべき漫才は テキセツの街 だなと普段から言っていた。
そんなテキセツさんは僕らのことを知っていてくれたらしい。しかも面白いと言ってくれた。
これをただのお世辞じゃないと決定づけているのはいくつかある。
①実際にどんなネタをしていたか覚えてくれていた
②実は漫豪に僕らを呼ぼうとテキセツさんが言ってくれていたらしい。(きゅうりさんがまだ早いと止めたらしい)
③3年の夏芸会決勝の日、中野でたまたま東郷さん(ツッコミの方)に会ったら、あだ名とピン名とコンビ名を完全に覚えてくれていた。
④ちょこちょこあったときにもカナディアンどう?とか赤組じゃないの?とか言ってきてくれていた。
などなどね。どうだすごいだろ
この出会いは自慢しただけでなく、後々僕らの漫才の転機になるのでしっかり書きました。

そんな出会いはあったけど、僕らは今までにやったことない漫才をしようとしていた。立ち位置も逆にした。
本番。そりゃあもうウケなかった。最初のつかみだけうけて、後半ゲラな人だけちょこちょこ笑ってる感じ。
キツかったけど、それまでのすべってきたライブに比べれば、今までと違うことをしてるって言う言い訳も乗っかってあんまり辛くはなかった。
ただ打ち上げに参加できるほどの余力はなかったよ。

帰って冷静に考えた。
いつも僕は逆算で考えていた。それは1年生の時に43期のセドレーさんが日本一を取るためにはステップを踏んでいないといけないって言っていたのを胸に刻んでいるから。決勝を経験したことない人間に決勝の舞台で勝つ力はつかないし、準決勝に出たことない人は決勝に進む能力はない。この理論はすごいと思う。

だから僕の逆算は
3年の冬に優勝
3年の夏は決勝進出
2年の冬準決勝
だった。これは少なくともの話ね。そりゃあもちろん毎回優勝するつもりで出てるし日本一を取る気でやらなかったらこの最低ラインも超えることは無いと思う。

そしてふと、今の実力は逆算のステップを踏めるほどの位置にいるのか、今この段階でやっていることは日本一を取れる人では無いと言うことを突きつけてきている気がした。

そんな不安感の中、オーディション以来なかなか集まれなかったチームの集まりをした。
ふざけてしまってなかなか真剣な話ができなかったけど、しばらくしてそれぞれがなんでこの冬勝ちたいのかの話になった。
そうして結論。やっぱ何がなんでも勝たなきゃいけなかった。どんなに苦しかろうが、どんなに面白くなかろうが、意地でも結果を持って跳ね返さなきゃいけない何かがあった。

ぱんぱんは「1日3時間を全員がやったら絶対に日本一取れる」と力強く僕らに語ってきた。
「3時間やって日本一取れなかったら信心やめてもいい」とまで言った。
彼の目を見ればそれがどれほどの熱で、真剣に言っているのか、ふざけてしまう相方でもわかったくらいだった。
そこから僕たちは1日3時間を始めることになった。
なんだったら相方は朝晩の勤行をするのもままならなかったし、たけしも30分以上あげたことなかったと思う。でも、一応僕たちはスタートさせた。

ぱんぱんの勢いはすごく、この3時間の波は他のチームにも伝染していった。赤組や青組もやってたと思う。記憶が確かなら

初めてすぐに僕らは対決ライブがあった。
上智と慶應とのバトルライブ。
テスト期間ということもあり、お客さんが死ぬほど少なかったが、客数など関係なかった。
創価はまた全敗だった。
実はこの年創価落研はバトルライブに一回も勝てなかった。それどころか一勝もしてなかった。
帰りの道中、全員無言だった。

ただ3時間やると決めた僕らは、やり始めてすぐ結果なんて出るわけないよなって思ってたから、次にあるレジスタリーグに焦点を合わせていた。
レジスタリーグ何度応募しても落とされていたのに学生M-1後送ったら速攻通った。
高校生の時にお笑いを始めたのも、初めて大学お笑いに触れたのも、そこで創価大学に行こうと思ったのもレジスタリーグだった。

ただ近づくにつれて、僕のメンタルはどん底に落ちていった。ボケとツッコミを入れ替えたものの新年ライブもバトルライブも手応えはなかった。何がウケるのか本当にわからなかった。
だからネタをもう書きたくなかった。

前日僕はばっくれた。何度も相方から連絡があったけど、ネタやライブに向き合うのが怖くて、逃げた。
相方は先輩とネタ練りをしてくれていたのだ。夜遅くに練られた2分尺の「墓参り」が送られてきた。僕も思ってたけど、相方も思ってた。
ここまできたら今まで信じてやってきた元の形で勝負しようと。

その台本をなんだかんだ朝までに僕がまた添削した。ミスドで少しまたネタ合わせをした。2人での決意は固まった。3時間やってる。NOROSHIまでに人前でネタをやるラストチャンス。ここでの結果が自分たちの全てを決める。覚悟して死ぬ気でやろうと

緊張を忘れるくらいネタ合わせをした。それまで「漫才は鮮度だ」などと偉そうに言っていたのが嘘のように、ずっとネタの練習をした。
BリーグはAリーグの後、Aリーグの人たちが最初は客が重くて大変だったと会話しているのに、少し怯えながらも僕らの出番はやってきた。
Bのトップバッターだった。
掴みから、一個一個の大喜利が確実にウケていくのを体感した。2分のためにここまで無駄なく削った台本は初めてだったのかもしれない。笑いが沈む間がないって感じ。これか。

出番を終え待ってる間はソワソワしていた。同期のSF横丁もいたし、他にもたくさんいた。現オーラスの神山さんなんかも4年生だったのにギリギリで出ててズルって思ってたし。
ダイソンさんからはお前らありそうだけどなって言われた。

Bリーグの発表。上位3位までがAに昇格。
3位呼ばれず、2位SF横丁、残すは一位。
この時点で割と諦めてた。一位なんてとったことなかったし、な訳がないと。

さすらいラビー中田さん「一位カナディアンロッキー!!」パニックになりながら舞台に出た。

何にも面白いことは言えなかった。直後に東大落研とのライブがあったのですぐに出なくちゃいけなくて私服に着替えて荷物を持っていたのが生意気に映ってないかだけを気にしていた。

チームに報告すると3人ともほんとに喜んでくれた。3時間の効果が現れ出した!冬に向かって上昇しだした!と。

そのあとの東大落研とのライブはみんなに祝福の言葉を受けながら、なんとも幸せに包まれながら漫才ができた。そんなにウケなかったけど。

NOROSHI勝つための最低ラインには立った。

勝負はここからだ。

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