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通り魔は嬉しそうに「アキバはうらやましい。たくさん殺しているしボクはたった2人だから」と語った|土浦無差別殺傷事件・金川真大

2008年3月19日、茨城県土浦市で72歳の男性が刃物で刺され死亡した。殺人容疑で指名手配された男はいったん東京・秋葉原に逃走したが、同23日、自宅最寄り駅である荒川沖駅に戻り通行人を次々と殺傷。1名が死亡し、7名が重傷を負った。男は犯行後、付近の交番から「私が犯人です」と名乗り出、逮捕された……。
週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは。

「捕まえてごらん」と警察を挑発した逃走犯

「誰でもよかった。人を殺せば死刑になると思って刺した」
 2012月6月10日、大阪・ミナミの路上で男女二人が刺殺された通り魔事件の容疑者・礒飛京三容疑者(当時36)は動機を淡々と供述した。
「死にたければ勝手に自殺しろ」
 ほとんどの国民は、腹のなかでこう呟いたに違いない。4年前の2008年3月23日に起きた、茨城県土浦市のJR常磐線荒川沖駅通り魔事件の金川真大(当時24)の坊主頭や切れ長の眼が脳裡をかすめた。

 その日は、春の日差しが穏やかに降り注ぐ日曜日だった。黒いスーツにニット帽を被り、リュックサックを背負った金川が、両手に文化包丁とサバイバルナイフを握り締め、駅の連絡通路にいた8人の男女を次々に刺し駆け抜けた。
 金川は4日前の19日、土浦市の男性(72)を刺殺し、指名手配されていた。22日には「捕まえてごらん」と警察を挑発する110番を掛けていた。駅構内に8人もの捜査員が張り込んでいた中での惨劇だった。わずか16分間の犯行は、金川が熱中していた殺戮ゲームではなかったか。動機は「自殺は痛い。死刑になりたかった」。

 金川真大と同世代のA記者とわたしは、土浦市内の住宅地に建つ一戸建ての実家周辺を取材した。近所の主婦の話。
「94年頃に引っ越して来て、ご主人は外務省の官僚だと聞いています。お子さんは4人いますが、兄弟一緒に遊ぶ姿を見たことはありません」
 恵まれた環境で育った金川は地元の私立高校に進学。同級生が言う。
「口数が少なく大人しい印象です。彼は弓道部に所属し、全国大会にも出場しています。勉強は中の上でした」
 3年になって進路を大学進学から就職に変えた金川は、1社落ちた後どこも受けなかったという。高校卒業後はコンビニのアルバイトをしながらゲーマーの聖地・アキバに通っていた。知人の話。
「ゲーセンに入り浸って格闘ゲームに熱中して、負けると機械をぶったたくこともあった」
 手垢の付いた表現をすると「どこにでもいる普通の若者」が何故、凶行に走ったのか。

坂本龍馬の名言を引用した
中学校の卒業文集

「『最初、妹を狙ったが家にいなかった。次に小学校で人を殺そうと思ったが卒業式で人が多かったのでやめた』、と金川は供述している」(捜査関係者)
 当時の金川家は食事を共にすることもなく、家族バラバラで会話もなかったという。そのあたりの考察は心理学者に任せるとして、金川と面会を重ねた同僚のA記者が彼の肉声を語ってくれた。
「水戸拘置支所で初めて面会をしたのは事件から半年経った10月です。彼は澄んだ眼をしていて、歓迎の意味なのか口元を緩ませニヤニヤ笑っていました」

ーー最初の殺人計画がどうして妹なのか。
「妹は中学時代に不登校になっていて、それに態度が悪かったから。とにかくブスッとして腹が立った」
ーー自殺を考えたことはなかったの。
「ないですね。自殺は相当絶望しないと出来ないですよ。自暴自棄になっていたわけじゃありませんから」
ーー秋葉原の事件をどう思う。
「アキバはうらやましい。たくさん殺しているしボクはたった2人だから。死刑になれるちゃんとした決まりがなかったから、たくさん殺さなきゃと思った」
 A記者によると、一番楽しそうに語ったのはアキバの加藤智大の話だったという。
「事件を模倣されたのがよほど嬉しかったのでしょう」

 2010年1月5日、控訴を取り下げた金川真大の死刑が確定した。一審の水戸地裁では、被告の責任能力が最大の争点になった。何故、金川被告が無差別殺人で死刑を望んだのか。核心を審理せず、事件の闇は閉ざされた。
 2013年2月21日、死刑が執行された。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。