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【週刊誌事件記者の取材ノート】新城市会社役員誘拐殺人事件「動機は、フィリピーナへの愛」

週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは……。
小林俊之『前略、殺人者たち 週刊誌記者の取材ノート』より

街での評判は非常によく、逮捕に誰もが「信 じられない」と口を揃えた

愛ゆえにおきた悲劇

「今でもごっつうが犯人だとは思っていない。何かの間違いだろう」
 ごっつうこと五味真之(仮名)が起こした殺人事件から12年、奥三河の長閑な街・新城市の、彼を知る人たちは今でも真顔で語るのだ。
「ずぼらだけれど、子煩悩で仕事熱心。あんな優しい男が殺ったとは信じられない」
 そこまで言わしめる五味(38・当時)だが、その殺人事件は惨いものだった。
 2003年4月18日、愛知県新城市の会社役員Aさん(39)の家族に身代金1億円を要求する電話が掛かった。前日夜、すでにAさんは五味の車の中で絞殺されていた。2日後、Aさんの遺体が隣町の山中で発見され、誘拐事件の報道協定が解除された。

 翌日、わたしは新城市に入り取材を開始した。その頃、五味は恋人が居るフィリピン逃亡を企て、成田空港へ向かっていた。22日13時45分、マニラ空港で身柄を拘束され強制送還される。殺害動機とされた「フィリピーナへの愛」は連日大きく報道され、ワイドショーを賑わせた。
 五味真之は県内の私立大学を卒業後、サラリーマンを経験するが地元に戻り家業の仕出し弁当屋を継いだ。店で働いていた女性と結ばれ、2男1女が誕生した。夫婦仲も良く、店は繁盛した。跡継ぎとして期待されていた。
 被害者のAさんも、地元では有名な企業の3代目で資産家だった。2人を知る地元男性の話。
「AはJC(青年会議所)の愛知ブロック協議会の会長に就任し、名古屋に行くことが多くなった。その送迎をごっつうが担当していた」
 2人は新城JCの同僚で、同じ小中校の先輩後輩だった。子供の頃から知る自営業者が語る。
「ごっつうは高校時代野球部でキャッチャーをやっていた。名古屋の大学を卒業してから実家の弁当屋を継いだのです。お爺さんが駅前で食堂を開業、父親が弁当屋を開いたのです。五味さんの給食センターはほとんど独占企業で、ごっつうがお金に困るということはなかったと思う」
 酒は飲めなかったが、女好き。五味のピンパブ(フィリピンパブの略称)狂いは新城で知らない人はいなかった。
「うちのお客さんに連れられて三ケ日町のピンパブに言ったら、ごっつうが嬉しそうな顔をして店にいましたよ。彼は昨年の暮、警察署の近くで大きな交通事故を起したんです。これも毎日ピンパブで遊び、寝不足から居眠り事故を起したのです。病院を退院した翌日にはピンパブで飲んでいたらしいから、相当のめり込んでいたんでしょう」

 わたしは、五味が通っていたフィリピンパブを割るため、近隣の飲食街を飲み歩いた。
 五味真之が足繁く通っていた、静岡県三ケ日町のフィリピンパブは事件当時、閉店していた。ビルオーナーの許可を得てビル2階の店内に入った。ステージにはドラムセット、各テーブルにはメニューが置いてあり、タレント(フィリピンホステス)がいればすぐにでも営業ができる状態だった。
「経営者が問題を起こして11月30日に店を閉めた。オープンして間もなく新城JCの仲間2、3人と五味は店に来た。五味はナンシーをすぐに気に入り、毎夜ナンシーを指名して、何を話しているのか、店の右奥のボックスでボソボソ話をしていた」
 ナンシーは来日2回目だった。事件当時は和歌山のパブで働いていたという。午後7時から翌2時まで営業。システムは1時間3千円で指名料が千円、同伴は1時間6千円、すべて前払い制である。
「五味は交通事故を起こすまではほとんど毎日来ていた。退院した翌日に店に来たときは、さすがにわれわれも驚いたね。今回の事件ではじめて五味が妻帯者だと知った。ナンシーも独身だと思っていたんじゃないかな。毎日来るんであいつは何者だという話になって、弁当屋だと知ったときは、弁当屋はそんなに儲かるのかとみんなで話題になったんだ。事件で使われたあのワゴン車に乗って、逮捕されたときに着ていたようなジャンパー姿で開店前から店の前で待っていたよ」
 しかし、事故後はパタッと足が遠のいたとオーナーは言う。
「ナンシーが帰国する頃は週に1、2回しか店に来なかったし、さよならパーティー(最後の勤務)の時は義理で顔を出したという感じで、8時ごろ店に来た。そのころは豊橋のピンパブに通っていたようだね。ナンシーは、客にやらせろと言われただけで泣き出すぐらい純情な子で、身持ちが固いので五味は諦めたのかもしれない。五味はナンシーにプレゼント攻撃をかけたようで、携帯電話を買ってやったし、みんなが羨むようなネックレスや指輪をしていた。五味さんはやさしくていい人といつもナンシーは言っていた。あの五味が本当に殺人をやったのか、と今でも信じられないんだ。おとなしくて照れ屋の五味が本当に1人でやれるものかってね」
 新城から三ケ日まで峠を越えれば車で20分ほど、豊橋まではどんなに飛ばしても45分はかかる。三ケ日に通わなくなった理由は事故後家族から店に相談があったからだという。取材先を豊橋市に移し、フィリピンパブを回った。

 豊橋駅からタクシーで7、8分ほどの郊外にある店に、五味が愛したフィリピーナ・バンビ(25)のいた店がある。従業員の話。
「バンビはシンガーとして来日していますが、ダンスもすごくうまかった。五味さんがはじめてウチの店に来たのは昨年の10月下旬。JCの団体5、6人で来て五味さんは一目でバンビを気に入ったようです。すぐに1人で店に来るようになりました。最初のころは3時間セット(1万円)で遊んでいましたが、バンビが帰国するころはオープンラストでしたね。月に30万円以上は使っていたと思います」
 仕出しの残りなのか、オードブルや弁当をバンビに差し入れていた。
「バンビのさよならパーティー(3月3日)は、五味さんは大きな花束を持ってステージ前の6番テーブルを1人で陣取っていました。バンビはクリクリッとした目をしていて、フィリピーナとしては大柄でふくよかな感じの子。知的で日本語も巧く、指名が多いタレントでした。五味さんはカラオケをやるでもなく、黙々とウーロン茶を飲んでいました。なにが面白くて店に来るのだろうと不思議でしたね。五味さんは大声を出すでもなく紳士的でおとなしい方だったので、事件を知ったときはまさかと思いました。今でも信じられないんですよ」
 バンビを招聘したプロモーター会社社長が取材を受けてくれた。
「バンビはシンガーとして4度目の来日でした。年の違う弟の学費や生活費を稼ぐため日本に来たのです。頭がいい子なので日本語は達者でした。事件がなければ4月下旬には再来日する予定でした。マニラでの記者会見で、五味からお金は一切貰っていないとバンビは言っていましたが、私も以前から同じことを聞いていたから本当だと思います。五味から貰ったのは、クリスマスプレゼントの金の指輪だけだそうです」
 バンビは愛知県警に呼ばれ、事情聴取を受けている。
「その時に『五味と会えるか』とバンビはわたしに聞いてきたから、会えないよと言うと、『あっそうなの。五味が(刑務所から)出てくるまで待っていようかな』とバンビは言っていました。五味が再逮捕された後に『死刑か無期だよ』とわたしがバンビに言うと、黙って聞くだけでした。記者会見で五味とはどういう関係かと質問されたが、バンビは恋人と答えたと記憶しているが、恋人というのは肉体関係を認めたことと同じです」
 そう社長が語り携帯電話でフィリピン人の奥さんに電話を掛け、わたしに繋いでくれた。
「五味さんがマニラに来たとき初めて関係を持った、とバンビは言っていました。五味さんはやさしくていい人だったようです」
 奥さんは流暢な日本語で語った。

「あんなにやさしい人はいませんでした」

 2003年8月15日午前10時、名古屋地裁で初公判が開かれた。五味真之(仮名)はチェックのシャツにジーパン、逮捕当時の茶髪のパーマは黒い短髪に変わっていた。ずんぐりした体型で、ギョロッとした目で傍聴席を窺い、席に着くとうつむいた。裁判長の人定質問には、背筋を伸ばしはっきりと答えた。
 用意してきた陳述書を五味が読み上げると満席の法廷内は静まり返った。Aさんと遺族への謝罪で意見陳述は始まった。

「私の借金の話で、車内で話がこじれました。Aさんは、私と親しかった青年会議所のメンバーも挙げて『お前らはフィリピン人の尻ばかり追いかけている。お前らにはJCに入る資格はない』ということを言い、結婚を考えていたフィリピン女性も『尻軽女』と言われました。親友と、好きだった女性まで馬鹿にされたように感じて腹がたちました。車を降りようとしたAさんの右手が私の顔に当たり、侮辱されたと思い許せなくなり、車内のロープで首を絞めてしまいました」

 五味は殺害や身代金要求は認めたが、「金を奪うために殺そうとしたのではない」と強盗の犯意を否定した。弁護側も強盗殺人は成立せず、殺人と窃盗罪にあたると述べた。最後に「私も子供が3人いて、こんな親でも子供のことが大好きです。でもAさんはもう子供を思うこともできない。私は受けるべき罪は謙虚に受けたいと思います」と涙声で語った。閉廷後Aさんの父親は「命乞いをしている。あらためて五味の卑劣さを感じた。尊い命を奪ったのだから、命で返して欲しい」淡々と報道陣に語った。

 わたしは五味の口から動機を聞きたく、事件から約1年後、名古屋拘置所に初めて手紙を出した。面会を拒否されたが文通は続いた。便箋にびっしりと几帳面に書き込まれた乱れのない文字が、五味の生真面目な性格を伝えていた。2ヵ月後、心境に変化が起きたのか「お会いできるのを楽しみにしています」との手紙が届いた。
 2004年6月4日11時40分から10分間、名古屋拘置所1号室で初めて対面した。黒のセーターを着た小太りの五味は、大きな瞳でジーッとわたしを見つめた。表情は穏やかで人殺しの臭いは感じなかった。人生を変えた恋人バンビの消息を聞いた。
「マニラで事情聴取されたときの様子を警察の人から聞きました。それだけです」
 目を落とし、消え入るような小声で語った。わたしはちょっとだけ後悔した。初対面ということで、取り留めのない話しかできなかった。4日後、便箋7枚にびっしりと几帳面に殺害動機を綴った手紙が届いた。それは検察側の「身代金目的の計画的犯罪」とは真っ向から対立するものだった。

〈バンビを本気で好きになってしまいました。その女性のことを“ジャパゆきさん”“尻軽女”“だれでもお金でやらせる女”と罵られます。大切な親友と好きな女性を罵られて今まで溜まっていたものが一気に吹き出した気持ちになり(略)気がついた時には下に落ちていたロープを手にして力を入れていたというのが事実です〉

 そしてフィリピーナとの出会いを、こう綴っていた。

〈20歳の頃、1人のフィリピン女性と知り合いました。(略)本当に奴隷のようにやくざに使われていました。私の前で殴られる姿も見ました。(略)この時からフィリピン=かわいそうな女性という概念が頭の中に植えついてしまいます。(略)バンビの家も外見は普通なのですが、部屋の中は狭くおふろもドラム缶で水という状態でした。バンビが働かなければバンビの母親弟たちが生活できないこともわかりました。(略)本気で好きになってしまいました〉

 五味をそこまで夢中にさせたバンビにわたしは記者として会わずにはいられなくなった。2005年5月、愛知県内のフィリピンパブでわたしは源氏名を変えたバンビを指名した。日本人に似た顔立ちで派手さはなかった。
「五味さんは、私のことをどう想っていたのでしょうか。私のことをあなたに話しているのでしょうか。何て書いてあるのか知りたい。是非教えてください。いつかは出て来られるのでしょうか。あんなにやさしい人はいませんでした」

フィリピーナの恋人「バンビ」への深すぎる愛が、悲劇を招いてしまった

 流暢な日本語で語るバンビの瞳は潤んでいた。わたしは「五味は本気だったんだ」と妙に納得した。しかし、「愛した女を蔑まれた」ことで、人は人を殺せるものだろうか。わたしは、本気で女に惚れたことがないのだろうーー多分。五味はこう書いている。

〈何であんなことで頭に来たのかな、冷静に行動すればこんなことにならなかったのに(略)。我に戻って事の重大さに気づき身体がガタガタ震えてくるのです。(略)冷静になって考えると、被害者の人からの言葉は、悪口や侮辱ではなくて、私のために言ってくれた注意なんだと想います。本当にとりかえしのつかないことをしてしまった〉

 2006年12月15日、名古屋高裁で無期懲役が確定した。五味は現在、西日本の刑務所で贖罪の日々を送っている。

〈いつか小林さんと四国(遍路)を歩きながら色々な話ができたらいいなと思っています。それまで元気でいて下さいね〉

 2006年、フィリピン人の興行ビザの発給は従来比10%程度に激減した。街からフィリピンパブの喧噪が消えて久しい。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。