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男が愛したのは「死体」だった…お台場フィリピン人バラバラ殺人事件・野崎浩

2008年4月、お台場のマンションでフィリピン人女性のバラバラ遺体が発見された。逮捕されたのは同居していた男、野崎浩。野崎はこの事件の9年前にも同様の「バラバラ事件」にて死体遺棄・損壊の罪に問われ服役していたのだった…。
週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは。

遺体を解体して性的快感を…

 2012年12月4日、最高裁第2小法廷は野崎浩被告(53)の上告を棄却、死刑が確定した。野崎は1999年と2008年にフィリピン女性を殺害、殺人と遺体をバラバラにした死体損壊罪に問われていた。

 99年4月、神奈川県横浜市に住んでいた野崎は、都内墨田区錦糸町のスナックで知り合ったフィリピン女性のエルダさん(27)と愛人関係にあった。彼女には日本人の夫と子供がいた。取材した社会部記者が述懐する。
「忽然と姿を消したエルダさんに、家族は捜索願を警察に出したのですが、5ヶ月間まったく行方は分からなかった。それもそのはずでバラバラにされた彼女は、ビルの男子トイレの便器から流されていたのです」
 レンタカー不正使用の横領容疑で逮捕された野崎の自宅マンションから、エルダさんの歯と骨の一部が発見され事件が明るみになった。公判で明かされた遺体損壊の手口は酸鼻の極みだった。

<被告人はカッターナイフを使い死体を肉、骨、内蔵、頭部、陰部等に解体。パスタ用の鍋の中に内蔵、両手首、頭部を入れ、順次煮沸した。カッターナイフで肉と骨を分離。さらに骨をカセットコンロの上の餅焼き網に乗せ、焼却、粉砕した>(冒頭陳述要旨)

 数多あるバラバラ事件でもこの男の執拗さ、念の入れようは常軌を逸していた。しかし、野崎浩に言い渡された判決は、死体遺棄・損壊で懲役3年6月。殺人罪には問えなかったのだ。当時の司法担当記者が解説する。
「野崎は『朝、目が覚めたら彼女が死んでいた』と一貫して主張、殺害の自供は取れなかった。残された遺体からも、殺人は立証できなかったのです」
 敢えて言う。もしこのエルダさん事件が殺人罪で立件されていたら、9年後の殺人事件は起きていなかったのではないか。

 野崎浩は百貨店勤務の父親の次男として東京・浅草に生まれる。地元の高校を卒業後、私立大学に進学するが間もなく中退。
「アメリカに渡り、コックの見習いなどをしていたようだ。帰国してもアルバイトなど職を転々。そのころ嵌ったのが、全盛だったフィリピンパブだった」(社会部記者)
 刑務所を出所した野崎は、コード・ネームをチャーリーと称し、またぞろフィリピンパブに出没する。07年の夏、上野のクラブで第二の被害者・ハニーフィットさん(22)と出会う。一目惚れしたチャーリー野崎は、ビジネスコンサルタントと名乗り週3、4回は店に通っていたという。クラブ関係者が言う。
「チャーリーは彼女と同伴してラストまで店にいました。手品師顔負けの技を披露して、フィリピーナの扱いが上手かった」
 信用させたチャーリーは、通称ハニーに同居を提案する。フジテレビ近く港区台場のタワーマンションでハニーと従姉妹の2人、チャーリーと計4人の奇妙な同居が始まったのはその年の12月。3LDK家賃26万円のうちチャーリーの負担分は10万円。しかし無職のチャーリーが払えるわけもなく当然諍いは起きる。そして事件は起きた。捜査関係者の話。
「彼女たちの負担金16万円を野崎は使い込んでいた。家賃が払われていなかったことで激しい言い争いが続いていた」

自称・手品師。言葉巧みにフィリピン女性に近づき、凶行に及んだ

 08年4月3日、出勤してこないハニーを心配した従姉妹がマンションに戻り彼女の部屋を覗いた。しかし姿はない。
「従姉妹は台所から出てきた野崎と鉢合わせした。驚いた野崎は、両手で抱えていたハニーフィットさんの肉魂と骨を床に落としてしまった」(当時取材した警視庁担当記者)
 従姉妹の通報で殺害事件が発覚、3日後に手首を切って自殺を図った野崎が逮捕された。自供によりコインロッカーに隠していたハニーの胸や臀部が見つかった。わずか3時間で遺体を解剖、また血抜きのためか洗濯機で洗浄されていたことも判明した。

 殺害動機を「今まで尽くしたのに無視されカッとなった」、バラバラにしたのは「独占欲が強く遺体を見られたくなかった」と野崎は供述した。果たしてそうだろうか。わたしは遺体を解体することで性的快感を得るネクロフィリア(死体性愛)だと断言したい。
 野崎浩の死刑が確定した心境を、同居していた2人の従姉妹から聞きたくわたしは西武新宿線に乗車した。彼女らと長年親交があったフィリピンパブの店長から話が聞けた。
「2人は3年前に店を辞め、今は埼玉県で介護の仕事をしています。実は、当時彼女たちから『気持ち悪くて怖い』と相談されていたのです。早く離れろ、と言っていた矢先の事件でした」
 2人の心中を察するに余りある。

 野崎浩は2020年、東京拘置所で病死した。61歳だった。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。