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【「あたし」は理想の「君」?】ボッカデラベリタ 歌詞の意味を考察してみた

お久しぶりです遊々自適です。今回は少々突発的ですが、ボカロ曲の考察をしていきたいと思います。

1.『ボッカデラベリタ』とは

「柊キライと申します。九作目です。どうにも幼さが溢れる歌です。」
・柊キライ氏のボカロ曲9作目。
・絵・動画:WOOMA
・ボッカデラベリタ=Bocca della Verità=真実の口

2020/04/26に投稿され、本日(2020/9/21)時点で650万回再生されている人気ボカロ曲。

この曲の歌詞に登場する『君』の正体と、『あたし』との関係性があちこちで解釈されています。自適がざっと見たところ、「『あたし』の恋する相手」説が一番多いようですね。

最近聞き始めた自適の解釈はこちら。

以前結論だけボソッとつぶやいていたのですが、ここではなぜそう思ったかという過程を、順を追って説明していこうと思います。

2.『あたし』と『君』

『あたし』の方の正体は動画担当のWOOMAさんから語られていて、PVの彼女の名前は「魅朕(みさき)」。 

魅惑の「魅」に、皇帝の一人称である「朕」という字が充てられています。歌詞から垣間見えるお嬢様言葉と違わず、不自然なまでの仰々しさを感じます。彼女の鋭い犬歯やかぎづめのような手は「魔女」、チェーンのピアスやタトゥーのような模様は「不良」を連想させます。実際、曲の象徴的カラーである紫は、これらを暗示する色のようです。

一方の『君』はというと、「くたびれだらけ」で「てんでだめ」。「魅」惑的で「高貴」な魅朕とは真逆の存在であることがうかがえます。

3.『あたし』と『君』の関係性

まずは二人の関係性を示す情報を歌詞から抜粋してみます。

●あたし→→君 
・アイヘイチュー
・トップシークレット
・出てこないで

●君→→あたし 
・いい子じゃいられない
・いなけりゃあたしは無い
・いなきゃ今頃高嶺なの

『君』は魅朕にとって邪魔な存在ですが、それと同時に無くてはならない、まるで一心同体の存在のようです。特に「君がいなけりゃあたしは無い」が、二人の関係性の根幹を表していそうです。

ここで一つ気になるのが、「君がいなきゃ今頃高嶺なの」。どうやら魅朕はこれだけ高貴なのにも関わらず、いまだ高嶺の花ではないらしいのです。これは一体どういうことなのでしょうか。

4.曲の不健全性

では一旦視線を歌詞から離して全体を眺めてみましょう。
主コメを見てみると、曰く「どうにも幼さが溢れる歌」らしいのです。

揺れる画面や荒ぶる文字、おどろおどろしい字体から強い憎しみや苦しみが見て取れます。つまりここでいう「幼さ」とは、未熟で幼稚といったマイナスワード。歌詞はまるで子供が地団太を踏んで叫んでいる言葉だと思って受け取る必要があります。つまり作詞者が是として綴っているわけでない、全てが皮肉、反語、反面教師…と捉えた方が良さそうです。

次にPV全体のカラーを見てみると、先述したように紫色が目立ちます。紫は「高貴さ」を表す色である一方、ナルシスト・二面性という負の一面もはらんでいます。

よく'ナルシスト’は「自分が大好きな人」という意味で使われますが、本当の意味でのナルシストは、実は「自分が大嫌いな人」なのです。自分の欠点を認めることができず、完全無欠の理想の自己をこよなく愛する人。それはまるで自分が二人存在しているような「二面性」も暗示します。この曲における『あたし』と『君』の関係がこれに合致するとすれば、魅朕は「理想の自己」、『君』は「現実の自分」と捉えることができます。魅朕とは、おそらくただの「みさき」から生まれた異形の自己なのでしょう。

そう考えると、「君がいなけりゃあたしは無い」「君がいなきゃ今頃高嶺なの」という矛盾したような二つの言及の意味も通ってきます。理想の自分は現実の自分が生み出すものですが、理想から見た現実は目の上のたんこぶのような存在なのです。

5.真実の口① 逸話

ここまでで『君』の正体と『あたし』との関係性を見てきました。しかし、これらが一体「真実の口」と何の関係があるのでしょうか。タイトルになっている以上、詳しく調べてみる必要がありそうです。

言わずとも知れた「真実の口」は、ローマの教会にある石の彫刻です。

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見ての通り人の顔が刻まれ、口部分が広く穴になっています。嘘をついている者がここに手を入れると、抜けなくなったり切り落とされたりするという伝承が、この「真実の口」の由来です。

この逸話を歌詞に照らし合わせてみます。「喉を過ぎればそれは真実」とは、真実の口の審査をパスするほどに偽りで自分を固める嘘を突き通して真実にするという意味になります。ここでいう嘘とは虚飾の魅朕自身。現実の至らない自分を取り繕って完璧に魅せれば、それが「真実」になります。

この意味を、同じ個所にあたる「極を超えては落ちてくの」と対応させてみると、
「喉を過ぎれば」↔「極を超えては」
 「それは真実」↔「落ちてくの」
となり、「嘘を真実だと偽る度に堕ちていく」と読むことができます。嘘が「真実」になることはプラスかと思いきや、むしろマイナスの意味をはらんでいるようです。

6.真実の口② 神話

ここまでで、
●『君』の正体
● 「真実の口」伝説との関係性
を紐解いたことで、おおよそのストーリーが見えてきました。

しかし細かい部分を見てみると、
・奈落の底
・乾いた底
・喉を火傷させる
・極を超えては落ちていく
など不可解な箇所がまだいくつか残ります。

それではここで再び、曲全体を俯瞰してみます。PVを見ると、曲のクライマックスで魅朕の姿が変化しているのがわかります。


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白目が塗りつぶされた、人ならざるものの雰囲気をを感じさせます。この眼を見て思い出したのが、『東京喰種』。

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キャラクターが、「グール」という食人鬼に変化した時のこの眼です(画像の左目)。この「グール」と同じ眼をしている魅朕は、もはや悪魔と化してしまっていた、と言っても良さそうです。

さらに、間奏中の回転する四角や円は「輪廻」や「時」、さらにいえば「宇宙」を感じさせ、どこか宗教性のようなものを感じさせます。

ここから、次は真実の口の「宗教性」に注目してみましょう。真実の口には「海神オケアーノス」の顔が刻まれているとされていますが、ここに何かしらのヒントがありそうです。

そもそもなぜ神の顔が刻まれているのかというと、もともとは古代ローマ時代にマンホールとして使われていたためです。目や口部分の穴から水をよく飲み込むようにと、水にまつわる神の姿を刻んだのだといわれています。

そんなオケアーノスに関する神話に、以下のようなものがあります。

ギリシア神話の世界観では、世界は円盤状になっており、大陸の周りを海が取り囲み、海流=オーケアノスがぐるぐると回っているとされた。それ故、神話においてオーケアノスの領域という言葉は、しばしば「地の果て」という意味で用いられる。

ギリシア神話における「地の果て」とは、エリュシオンつまりは楽園のことです。これは世界の西の果て、オーケアノスの海流の近くにあるとされています。ここから推測すると、真実の口=「水に満ちた楽園」だとわかります。

しかし魅朕がいるのはそんな楽園とは正反対の「奈落の底」であり、潤った楽園とは正反対の「乾いた底」。「極」が地の果ての楽園だとすると、「極を超える」とはこの楽園を通り過ぎてしまうということ。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というように、普通なら消えるはずの熱さが喉を火傷させる、すなわち取り繕って本物にしたはずの偽りが、自分自身を地獄のように苦しめる。それを暗示するかのように、ラストで魅朕は徐々に焦げて失くなっていきます。

7.まとめ

以上をまとめると、『ボッカデラベリタ』は「理想の自分から現実の自分への激しい憎悪」「嘘で身を固める苦しさ」を、真実の口に例えて歌った曲という風に解釈しました。

サクッと書こうと思ったのにちょっと長くなってしまいました。ご意見ご感想等あれば、noteでもTwitterでも構いませんのでお願いします。今後もぼちぼちアップデートしていくと思います。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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