21世紀の資本主義社会で狂わないため1の方法

 狂わないための方法がある。それは自らの意思で狂うこと。狂気が入り込むスロットを、先に手製の狂気で埋めてしまえばいい。思わぬ形で現れた狂気は何を引き起こすかわかったものじゃないので、その前に、コントロール可能な形で極めて理性的に狂うこと、これがこの世界を狂わずに生きていくための唯一の方法だと考えている。以上でこの記事を書き終えてもいいのだけれど、抽象的な書き方で説明したところでうまく伝わっているか不安なのでここからは具体的にこの仕組みについて説明していく。ちゃんと読めばぼくが狂ってないことも分かってくれるはず。

 手製の狂気とは一体なんのことか。例えば「決して叶わない夢を抱くこと」がある。世界征服、国家転覆、革命。それらを人生最大の目的として生きること。決して叶わない、と言う点が重要である。努力次第で叶う可能性がある夢だと、叶えられない自分に対するやるせなさで苦しんでしまうことになる。そしてそういった実現可能な夢が人生の目的となってしまっていると、万が一叶ってしまったとき、達成感がひいた後にやってくる虚無感と向き合うことになる。このように実現可能性の高い夢を抱くことは、たとえその夢が叶っても叶わなくても結局どこかで狂うタイミングが潜んでいる。決して叶わない夢を抱くとどうなるか。上記の場合と逆に、どうせ簡単に達成できるものではないのだからというエクスキューズが用意されているため、自分に対する無力感に苛まれることもないし、自分が生きている間に達成されることはないのだから、夢が叶ってしまった後の虚無感に襲われることもない。また、大きな夢を抱くことは、生活に彩りを与えてくれる。たとえば日々食事を摂ったり体調を整えることは、革命に向けて資本となる体を作ることだし、毎日仕事に行くことは、革命のための資金を調達するための活動だという捉え方をすることができる。なんの目標もなければ絶望してしまうような日々の単調な作業が大いなる陰謀のための準備に変わる。そういう人生の目標は、達成する必要はないのである。死ぬ間際、自分の行動によって少しでも世界は革命に向かっただろう、あとのことは弟子に任せよう、そう思いながら死ぬことができれば成功である。

 もう一つの狂気として、宗教がある。宗教には守らなくてはならないルールが設けられている。お酒を飲まない、決まった時間に礼拝をする、何かしら指定された食べ物を食べない。生活にそういったルールが定められていると、それをこなしながら毎日を過ごすだけで充実感を得ることができる。ここで宗教に帰依するといっても、戒律の多い宗教を選ぶ方がいい。厳しくない宗教だと一見コミットしやすそうで生活に取り入れるのに良さそうに思えるけれど、戒律が少ないと神のために何をして良いのかわからず、正しく信仰することで得られる充実感がない。だから戒律の厳しい宗教に帰依すると、やるべきことが明確にされているので、言われたことをただその通りにこなす日々を送るだけで、正しく信仰できていることの実感を得られ、充実した日々を送ることができる。

 試してみてください。

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