マツモト・ザザ座「ケンジたち」

2024.2.17 19:00

もう2週間も経つ。
極楽寺でケンジたちを観劇した。マツモト・ザザ座という団体の旗揚げだった。

HOMEからヨネが出演していた。それから、ぴかぴか芝居塾参加経験のあるゆーくす。
彼らがどういう経緯で知り合い、どうして芝居をやることになったのか、私はよく知らない。
どうして極楽寺だったのか、どうしてケンジだったのか、そこに至るまでの努力や苦労を知らない。
しかし、劇場ではなくお寺、今まで聞かない稽古場やスタッフの参加、そして加藤直さんに演出をお願いする手腕。そこら中で見る広報物それらすべてが、彼らの芝居に対する情熱を物語っていると思った。

行っては帰ってくる非現実めいた浮遊感、ハッキリとした声質の割に聞いたことのない言語かと惑うセリフたち。
直さんの言葉にあったように、パレード。それは、一夜の幻想のようだった。
ケンジの世界をよく表し、身ひとつでどこまでも広がる。
ある時は木に、ある時はイチョウに、ある時はカニの子に。

ある人に聞いた。何もない舞台は客の想像力に頼らなければならず、椅子や布を何に見立てようと、その人の経験則で見えるものは変わる。何もないは、本当に何もないことを知らなければならない。演者は信じていた。舞台上の虚構を真実だと。
でも、信じていても、客には伝わらない。
彼らと同じものを私は見られなかっただろう。あそこは、極楽寺の本堂で、柏林ではなかった。
きっと、何もないことを知らないで舞台へ上がっていた。見たいものを見たいだけ見て、信じていた。客など置き去りにして。
酷い言い草だろうか。私たちは客を置き去りにしてなどいない。それは貴方の中の勝手な妄言であると。
そうなのだ。私の妄言。私は、あの舞台は何もないところに演者が何かを見ていた。極楽寺の壁を越えて広がるイーハトーブを、海を、床屋を。きっと、彼らは何かを見ていた。
それが良かったのだ。
それこそがあの舞台の良さだと思ったのだ。

夜の汽車に似ている。
灯りが落ちた時、汽車は進んでいる。
景色が足早に過ぎ去る。私は何となしに眺める。
車窓は一時として同じ姿を保つことなく、それを寂しく思うことがある。
それと同じ郷愁があの舞台の上にあった。パレードは終わる。光の強さを網膜に焼き付けたまま。
そして、我々はまた新しい夜を待つ。膝を抱えて。

そんな芝居を、私は2週間前に観た。
ひどく温かな、そして呑み込むのを躊躇われる舞台だった。

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