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宝満山、再訪

その年の3月末に、マラソンで負傷した脚をおして登った。その時は満足に登ることは出来なかったし、帰りの飛行機の時間が心配だったから途中にある鳥居を越えたあたりで引き返した。そしてあれから半年が経った。

再び九州を訪れ、宝満山に登る機会が訪れた。麓の竈神社で登山の安全と、この山を教えてくれた人とのこれからを祈った。神社を離れ、登山道へ向かう。あの時は何を祈っただろうか?今日とよく似たことを考えていたのだろうかと振り返りながら舗装された道を歩く。

相変わらず、よく手入れされた登山道だと思った。舗装路は山道になったが、丁寧に石段で刻まれた道は歩きやすい。しなるように身体が跳ねて上を目指す。半年前出来なかったことを、今なら軽やかに出来るのだと言わんばかりだ。頭で身体を抑えつけて、ゆっくり、ゆっくりと一つ一つの景色を見つめながら登った。よく見ればここは石楠花が多い。それは人の手によって植えられたもので、山が大切に扱われてきた証拠なのだと思った。九州の石楠花は何月に咲くだろうか。花が咲く宝満山を想像しながら登っていく。

百段ガンギと言われている石段の前に立つ。なるほどここが、と思いながら写真を撮った。この山道は参道であると、ここまで登ってくる間にも考えていたが、しっかりと組まれた石段の道を見て、それを強く思った。ちょうど光が石段に流れ込んでいて、常緑の緑がきらきらしていた。その光景も、見覚えのある光景だと、一人笑う。美しいなと、笑った。

一人で山に登るときに、とりとめのないことを考えながら登る。だいたいのことは山に落っことしてしまうから、山を降りたときには忘れている。ただそうして考えていたことを、同じ山に登った時にふとして拾うことがある。思い出すことがある。もう一度この山に登りたかったのは山頂からの景色が好きだと話していた笑顔の理由を、この目で確かめたかったからだ。

最後の階段を登り、奥宮のある山頂へ着いた。そこからの景色は福岡の市街が一望できた。こうして街を望むことができるのだ、この山は昔からこの土地に生きる人々に愛されてきたに違いない。日差しが心地よい。今はただ、穏やかな空気の中で宝満山の山頂に来れた喜びに浸っていたいと思った。

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