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安全委員会の思い出

1941年
3年C組 比味津景札 厚

 僕が安全委員長になった時、委員会の備品は、5人分の腕章と警棒が3本だけでした。これだけで全校生徒828名の安全を守ることができるだろうかと、不安になったことを覚えています。

 そんな僕に顧問の蝦夷布先生は「先生も何が正解かなんてわからない。思い切りやってみろ!」と仰ってくれました。一斉摘発でやりすぎてしまった時も、先生の言葉を胸に、自信を持って警棒を振るうことができました。

(退職された蝦夷布先生の写真はもう一枚も学内に残っていませんが、せめて僕だけは先生のことをここに残しておきたいと思いました)

 一斉摘発からの一連の騒動は、僕たち安全委員会の意義を、厳しく自らに問うこととなりました。仲買人の飼っていた犬が襲ってきた時、お父さんの散弾銃とホッケー防具で僕を守ってくれた微事覧手君は、僕の恩人、そして親友です。(ごめんなビジ、やっぱ書いちゃった)

 厚生省地方厚生局麻薬取締部の皆さんから頂いた感謝状は、僕たちの誇りです。あの後、校長先生から渡されたテーザー銃のずっしりとした重さは、ずっと覚えていると思います。

 風紀委員会との論争も、懐かしい思い出です。僕たちを理解してもらうために、風紀委員のみんなを安全委員会室で一人ずつ、粘り強く説得していったのは、とてもよい経験でした。委員長の土呂月君は残念ながら退学してしまいましたが、彼の後輩たちは今でも、安全委員会の下部組織として尽力してくれています。

 今では仲間も増え、僕たちは生徒全員を立派に守れる大きな活動になりました。生活安全ほっとラインには、相談が毎日来ます。安全な学校生活のために、小銃と腕章を手に誇らしく出動していく仲間たちは、僕の一生の宝物です。

 僕は大きな誇りを胸に、全校生徒391名に見送られて、この学校を卒業します。卒業しても顧問として時々顔を出すと思いますが、どうかよろしくお願いします。

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