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浅田彰、復活?

『逃走論』(ちくま文庫)に続き、柄谷行人との対談を集めた『柄谷行人×浅田彰 全対談』(講談社文系文庫)を浅田彰の講演に行く地下鉄と、帰りの地下鉄で読んだ。ほんの予習のつもりだったが、けっこう面白かった。

ところで浅田彰の講演はNHK文化センター京都教室で行われた。
あまり期待していなかったのだが、殊のほか面白かった。
メモするつもりもなかったのだが、なんか気になることをあれこれ言うのでついついメモをちょっとだけ取った。

時間ギリギリに教室に入ると背の低い男性がパソコンのセッティングをやっていた。
それが浅田彰だと気づくのにしばらく時間がかかった。著名人だというオーラがほとんど感じられない。
50人くらいの教室はほぼ一杯で、学生のような人から現役を引退したような老人まで様々な人が参加していた。浅田彰ってまだけっこう人気があるようだ。

準備しない人

「大学時代、森毅という教授の授業を受けたときに、森先生は暗記もカンニングだと言うんです。何も準備しない真っ白な状態でテストして、その結果を評価すべきなんだと」
ということで、この講演のために浅田彰はとくに準備をしていないみたいだった。
では何をセッティングしていたかというと、自分のこれまで書いたことまとめた著書や雑誌の一覧みたいなpdfと建築の写真をまとめたパワーポイント、気になった人の抜き書きのpdfを画面に映そうとしていたのだ。
結局その三つをあちこち飛びながら2時間近く喋っていた。

『構造と力』を出版してから40周年という名目で開催された講演だったので、『構造と力』の出版から40年経った今の時代をどう見るかというようなテーマがある。

https://www.amazon.co.jp/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E5%8A%9B%E2%80%95%E8%A8%98%E5%8F%B7%E8%AB%96%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6-%E6%B5%85%E7%94%B0-%E5%BD%B0/dp/4326151285

浅田彰は1970年代からの思想と建築の流れをその三つの見にくい資料を駆使して話した。
こんな話である。

モダニズムからポストモダンへ

1970年の大阪の万国博覧会はひとつの歴史の転換点だった。
丹下健三設計のお祭り広場が話題を呼んだ。大屋根だけで構成されるモダニズム建築の最先端の設計のはずだった。丹下健三は広島の原爆記念館など歴史に残るモダニズム建築も作り、一時代を築いた建築家だった。その頃、ヨーロッパから始まったモダニズム建築は隆盛を極め、一切の無駄のない空間としての住居や平面的なファサードのビルディングなどが世界中に建てられていた。

原爆資料館@広島

丹下健三のもとで新進の建築家として頭角を現していた礒崎新も加わっていて、大きなロボットやなんかを使った未来的な演出になる予定だった。そのとき、丹下健三が、芸術家として注目されていた岡本太郎に大屋根にシンボルマークを作ってほしいと頼んだ。そうしたら岡本太郎はあろうことか、丹下健三の作った大屋根を突き抜けるタワーのような銅像を作ると言い出した。それで丹下健三は頼んだ以上仕方がないので、大屋根の真ん中に丸い穴を開けて自由にさせた。
そうしたら岡本太郎は土偶のようなプレモダンの形状にも見え、また色彩や形は明らかにポストモダンの「太陽の塔」を作った。

太陽の塔とお祭り広場の大屋根

モダニズム建築の構想は粉々に崩れ、丹下健三は敗北して入院、礒崎新はそれから斜に構えて、ポストモダン建築を次々と作った。その後、建築はポンピドゥーセンターのようなファサードすら不要だとする後期モダニズム建築なども生む。

ポンピドゥーセンター@パリ

ポスト構造主義、ポストモダン

そのとき思想界も戦後のプレモダンからポスト構造主義、ポストモダンの潮流があった。デリダやドゥルーズ=ガタリ、フーコーなどディコンストラクション(再構築)という運動があった。デイコンストラクションはディストラクション(破壊)ではない。少し捻って変えていくことなのだと浅田彰は解説した。

ジャック・デリダ

ちょうどその頃音楽シーンもドイツでダサい漬物ロックとしてできたテクノがアメリカ経由で日本にも入ってきた。坂本龍一のYMOなんかがそれをポップにして流行らせた。テクノはクインシージョーンがマイケル・ジャクソンに聞かせ、坂本龍一が承諾していればマイケル・ジャクソンが坂本龍一の作った曲を歌っていたかもしれない曲もあったのだとか。
1970年代にダニエル・ベルが『脱工業化時代の社会』を書いて、産業が情報化していく世界を予言した。しかし、実際にパソコンが身近になったのは、1984年にアップル社がマッキントッシュを発売してからだ。その10年後にマイクロソフトがWinsows95を出してInternet Explorerを標準でバンドルする。その辺りから、「多文化主義」と「グローバル主義」が対になって広がっていく。その頃、リオタールが『ポストモダンの条件』で大きな物語としての「資本vs労働」では解決しえない物語のことを提示した。
資本と労働は、あれこれの資本家とあれこれの労働者のことではない。概念としての資本家階級と労働者階級のことだ。

YMO

大きな物語からたくさんの小さな物語へ

資本vs労働という大きな物語のなかでは、労働運動の中にもある女性差別は解決できない。自然を搾取するという公害問題が話題になっていたが、環境問題も大きな物語では解決できない。電力労連は原発を支持している。ゲイやレズビアンのLGBTの問題もあり、そのなかにはトランスジェンダーなどより小さな物語がたくさん生まれた。

原子力発電所

つまり、障害者の文化、沖縄など地方の文化、アジア・アフリカの文化など文化はどんどん細分化されて問題提起されてきた。アートもヨーロッパ中心の評価だったのが、アジア・アフリカの作品は同じ物差しで評価できなくなってきた。現代芸術なんかは誰もお金が欲しいと思ってやっていなかった。そのときにグローバル資本主義が広がり、結局、アートは価格で評価するというようになってきた。多文化になり評価軸がさまざまになったときに、普遍的なものが唯一価格だった。
アートはある種の「否定性」で成立している。デュシャンが便器がアートだと提示したとき、それまでのアートの概念がある主否定されている。アートとはそういうものだ。商業的価値と芸術的価値は必ずしも一致しない。

ポストモダンが始めた「差異」「差違化」「差延」というような方向性は、身体のアイデンティティに行き着くところもある。ゲイやレズビアン、最近ではQueer(クイア)と呼ばれる存在がある。これは「変態」と呼んでいいと思う。差別用語だという人もいるが日本では幼虫がサナギになるのも「変態」という。変化する形なのだ。
男女差別も一度はひっくり返すことが必要だと言われている。でもそれは、女性が男社会の男のように振る舞うと言うことではない。

LGBTQ

浅田彰への質問

質問の時間がほとんどなくなったが、4人ほど質問していた。

Q1:浅田さんはラジオや雑誌で対談のようなものをされていますが、ファンとしては活字にして出版していただきたい。でもそうならないのはその企画をする出版者がいないからか浅田さんが断っているからなのか?
浅田:断っているからです。勝手に編集してくれればいいので、自分が死んでからすればいい。

Q2:書店に行けば、エリートビジネスマンに現代芸術を勧める本などがある。どういう本からアートに近づけばいいか?
浅田:少なくとも世界のビジネスエリートはそういう本は読まない。アートの価値は金銭的価値とは別のところになる。そういう本からは目を背ければいい。

Q3:大江健三郎さんのお子さんの大江光さんに触れた文章を書かれていたと思うがどういう考えだったのか?
浅田:坂本龍一さんとの対談の中で、大江健三郎さんが自分の小説よりも大江光の音楽の方が言葉の壁もなく世界の人を感動させられる。自分の作品より息子の音楽の方が普遍性があるということを書かれていた。そのことについて私は、小さな物語として障害者の作品をその家族、その支援者に感動を呼ぶことと大江健三郎の小説が世界の人々に感動を呼ぶことは「普遍性」として質の違うものだと言った。坂本龍一さんは大江光さんの音楽をプロが作る音楽じゃないと言った。それで二人は大江家からダメな二人とされたらしい。でも言いたかったのは身体性のアイデンティテイでつくる細分化された文化、それはそれで尊重されるべきものだが、それは普遍性とは別物だという今日の話と通じること。

大江健三郎と大江光

Q4:この過去10年くらいで読むべき本をあるか。
浅田:自分が『構造と力』を書いた頃、1980年代にはよい本がたくさんあった。大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』、中上健次『地の果て 至上の時』、柄谷行人『隠喩としての建築』、中沢新一『チベットのモーツアルト』など。そういう作品が出ているときに批評家として書くのはやりがいがあった。今の時代、そういう作品がないときに批評家は何をするのだろうと思う。柄谷行人さんとは10年以上『批評空間』という雑誌の編集をいっしょにした。とても鋭い視点で素晴らしい批評をする人だった。でも柄谷さんは批評家から哲学者になった。剰余価値から交換様式や権力構造のことなどを構想した作品を書いている。でも、その果ての世界はカントのように実現できなくてもいいというような結論になる。そこを批評するのが批評家の仕事だった。柄谷さんの変わり様は何とも言いがたい。

ウダウダ生きること

浅田彰は講演の間、しばしば同じことを言っていた。
自分は何かを成し遂げようとか思うタイプではなく、承認欲求というものがほとんどない。
柄谷行人さんは違う。彼は世界に認められたい。世界にというのは世界で有数の人にと言う意味だ。『マルクスその可能性の中心』をいう本を書いた後、アメリカのイェール大学に行った。そこでド・マン教授に師事した。ド・マンの紹介で柄谷さんはデリダと親交が出来た。自分の作品の英訳を渡した次の週、キャンパスでド・マン教授に合ったときにVサインをもらった。それが柄谷さんの承認欲求を満たすものだった。柄谷さんが世界に評価されたいというのは世界で評価されているそういう人に評価されたいということだ。誰かれなしに「いいね!」がほしいという今の風潮が理解できない。自分は何かを成し遂げる力もないが、ただウダウダ生きているのがいい。
柄谷さんがピンクレディのUFOで「消えますか?消えます、消えます、消えます」という歌詞を批評する人のことを言っていた。消えるというのは一度世に出た人の言うことだ。有名にもなっていない人は消えようがない。浅田君なら消えることができるが、と言われた。

それを聞いて、自分はもう消えてもいいんだとホッとした。
だからそれから自分はほとんど大きなものを書いていない。
『構造と力』を書いたのも何かをなし遂げようと思ったわけではない。
自分はピアノが好きな少年だった。でも才能がないことも早く分かった。自分にはこれといった才能がないと思っていた。そんなときにポストモダンの作品と翻訳に出会った。まともな翻訳はひとつもなかった。誤訳や行を飛ばしているのもあった。それで、これではデリダやドゥルーズが可哀想だと思った。せめて書いていることを正しく理解すべきだろうと。それで自分が『構造と力』を書いた。バカな奴らに思い知らせるためだった。

質問しなかったこと

浅田彰の講演のようなときに私は必ずといっていいほど質問をする。
それは何か抑えられない感情として喋ってしまうのだ。でも今回は若い人たちが手を上げていて、時間もなかったので何かその人たちに譲りたい気持ちで質問しなかった。
でも、私はこういう質問を考えていた。

浅田さんはSNSとどう付き合っていますか?
マルクス・ガブリエルなんかはインターネットそれもSNSは民主主義を実現することとは対局にある技術だとして一切使わなくなったと書いていた。多文化とグローバル主義がせめぎ合う中でSNSによるフィルターバブルによって分断が起きている。ガブリエルのように一切使わないという選択もあるが、そうでない方法はないのか?

マルクス・ガブリエル

でも、おそらく浅田彰はこう答えるんじゃないかと思う。
自分はほとんどSNSは使わない。いやマルクス・ガブリエルと同じでまったくかもしれない。
しかし、今の世界は予想されたことだと思う、と言うだろう。
実際1993年の柄谷行人との対談で浅田彰はこう話している。

世界資本主義は、市場の「見えざる手」によってすべての矛盾を解消していくかというと、おそらく逆で、ありとあらゆるところに不均衡と新しい階級分化みたいなものを生んでいくだろう。それに対抗するのは、非常に古いものをリサイクルした原理主義的な理念のようなものしかなくなっているという、大変困難な状況です。ヨーロッパの理念とかアジアの理念とか言っても、もう無理でしょう。
・・・
いかに歴史を物語るかという説話的な問題ですね。とにかく一応終わったことにして、そこから振り返ったときに、すべてなるべきしてなったかのような美しい「大きな物語」を語ることが出来る、と。
・・・
統整的なものであるはずの理念を構成的なものと考えて、それをむりやり実現しようとしたあげく、そのような現実が崩壊すると、理念も崩壊したかのように考えてしまう。カント的に考えればそれは誤りなんですね。
・・・
共産主義の理念で現実を構成しようとするからスターリン主義になってしまったので、それは統整的な理念だとみるべきだったんですね。

浅田彰は今回の講演のなかでもマルクスの読み方や少数派になった左翼について語っていた。1970年代には文化人、知識人の9割は左翼だった。今は頭のいい9割は左翼になんて興味を持たない、と。
世の中はそうなった。
それは批評家としての自分が無力だったと言うことでもある、と語った。

ウダウダ生きるのが好きという浅田彰。
でも、その知性は尋常でないと思った。

NHK文化センター京都教室

講演の予習として読んだ浅田彰の本。


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