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村田和哉、始動。

皆さんはじめまして、村田和哉です。
現役時代から応援してくださっている皆さん、いつもありがとうございます。
はじめての方もおられると思いますのでまずは自分のプロフィールから紹介させていただきます!

村田和哉とは?

株式会社人生最幸 代表取締役
1988年10月7日生まれ 滋賀県守山市出身 32歳

【経歴】
2006年 野洲高校 全国制覇
2008年 大阪体育大学 全国制覇
2011年 セレッソ大阪
2013年 清水エスパルス
2016年 守山ふるさと大使に就任
2017年 プロサッカー滋賀県人会を設立し、代表に就任
2019年 柏レイソル/アビスパ福岡
2020年 レノファ山口
2021年 10年間のプロサッカー選手を引退
2021年2月16日 株式会社人生最幸 設立

Jリーグ、リーグカップ、天皇杯、ACLの通算217試合出場、16得点

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野洲高等学校、大阪体育大学で日本一を経験。プロサッカー選手としてセレッソ大阪でキャリアをスタートし、清水エスパルス、柏レイソルなどでプレー。

現役時代はサイドを切り裂くスピードが持ち味でアシストを量産、スタジアムの雰囲気と試合の流れ変えるスーパーサブとして活躍。

チーム内では若手選手とのコミュニケーションを通してチームの雰囲気作りを積極的に行う。
ピッチ外でもSNSを駆使した新しい切り口で、地元のお店やイベントを紹介するなどの貢献活動を行い、スクール訪問、サポーターとの交流を通して新たなファン層を獲得。

そして、現役時代から子どもから大人まで夢の大切さを伝えるため、全国でサッカー教室や学校講演、企業講演などを積極的に活動。

2021年、10年に渡るプロサッカー選手を引退し、同年2月に『株式会社 人生最幸』を設立。
滋賀県に夢と希望と元気を与え「滋賀県にJリーグを!」という現役時代からの夢に挑戦。

村田和哉の想い

僕は滋賀県守山市で生まれ小学3年生からサッカーを始めました。

幼い頃からサッカーが大好きでいつしかプロサッカー選手になることが夢になりました。

10歳の頃に滋賀県のスーパースター井原正巳選手との出会いに衝撃を今でも覚えています。

本物プロ選手のオーラ、言葉の重み、サインをしてもらった時の喜び、写真を撮ってもらった感動。

「滋賀でもプロの選手になれるんだ〜」とプロを身近に感じた瞬間でした。

その出会いから井原選手のようになりたい、自分もプロサッカー選手になりたいという思いが強くなり、当時の卒業文集にもそのことが書いてあります。

中学校に進み、サッカーに明け暮れていましたが、中学2年の頃に大好きだった親父を亡くしました。

その時には地元の守山市の皆さんや周りの方々に支えていただいたお陰で今の自分があります。

母親や応援してくれる地域のみんなの為にもプロ選手になってやるという思いが強くなりました。

その後、野洲高校に進み、高校サッカー選手権で全国優勝を経験。

セクシーフットボール”として全国にその名が知れ渡り、何年経ってもその当時のことを皆さん話してくださいます。

山本先生のいつも言っていた、『野洲から世界へ』、『夢は持たないとノーチャンス』、『日本の高校サッカーを変える』という言葉を毎回話す先生の教えが今でも自分の胸に刻まれています。

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そんな先生に憧れを持ち、僕もこんな先生になりたいといつしか思うようになりました。

その後、大阪体育大学に進学し、サッカー選手を目指しながら教員になるための勉強との両立でした。

大学2年生の時に総理大臣杯全国優勝(2部リーグからの奇跡)を経験し、プロサッカー選手への道が大きく開けた瞬間でした。

あと2年頑張ればもしかしたらチャンスが来る、そう信じて文武両道の毎日でした。

大学4年生の頃、セレッソ大阪からオファーをいただき幼い頃からの夢が叶った瞬間でした。

セレッソ大阪に入団してからは、プロ選手として生活をすることになり、普段テレビでみていた選手たちと同じ時間を過ごしていることが不思議で堪らなかったです。

そこから自分の人生のさらなる転機が。

自分の中で海外挑戦という思いが強くなり、その結果挫折を味わうことになりました。

2013年の冬、滋賀県に帰り、一人で守山のグランドでサッカーをしていました。

サッカーする相手もいない、ボールもない、サポーターもいない。

マーカーやラダーもなかったので自分でグランドに足で線を引き、トレーニングをしていました。

そんな光景をみたら孤独を感じ、泣きながらサッカーをしていた日々もありました。

『俺っていままでどんだけ恵まれていたんだ』

お金をもらってサッカーをして、最幸の環境があって、たくさんの人が応援してくれている。

あー、今までのことって当たり前じゃなかったんだなってそこで気づきました。

でもその時に心に誓っていたことがあって、「こんな俺でもオファーをくれるチームがあればすぐに行く、次のチームでは地域や、子どもたち、サポーターの皆さんに対してめちゃくちゃやってやろうと」

そんな自分に声をかけてくれたのが清水エスパルスでした。

エスパルスに行ってからは自分のプロとしての行動、言動、サポーターへの想い、全てを変えていきました。

静岡県内のサッカースクールをひたすら周り、自分のグッズを買いあさって配り続けました。

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自分の車にも常にサイン色紙をストックしてました(笑)

清水の商店街に餅つきイベントなどにも飛び込んで参加して地域の皆さんとの関わりを増やしていきました。

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どうしても街を盛り上げたくて商店街の真ん中に自宅も構え生活していました。

商店街の皆さんにも家族共々よくしていただき、商店街の皆さんは大好きなファミリーです。

県外初選手として村田和哉後援会「人生最幸」も設立していただき、後援会も通じて社会貢献活動にも関わらせていただきました。

サッカー王国、サッカーの街で長い間生活していく中で、サッカークラブが街の生活の一部になっていて、そこに文化がありました。

エスパルスを通して、子どもたちに夢や希望がうまれ、高齢者の活力になり、企業同士のつながりが生まれ、地域をつなぐモノになっていました。

全国各地に試合にいく中でそれぞれの街にクラブがあり、クラブを通して街が盛り上がっている光景がいつしか羨ましくなりました。

なぜなら、自分の故郷の滋賀県にJリーグクラブがないからです。

大好きな滋賀県にもJリーグがあればみんなが繋がる場所が生まれるのになぁと当時から思っていました。

2016年から滋賀県にJリーグを創りたいという思いが強くなり、滋賀県での活動を始めました。

でも実際問題、滋賀県での自分の認知度は低い。

市民や県民の皆さんに知ってもらっているかというとそうではありませんでした。

まずは生まれ育った守山市での認知が必要だ!と考えるようになり、地元での活動を始めました。

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そのタイミングで守山市の宮本市長から守山ふるさと大使に任命していただくことになり、まずは守山市でサッカー教室を開催しました。

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そこから守山市内だけではなく、滋賀県内全域に活動を広げたいということでプロサッカー県人会を設立し、代表に就任しました。

滋賀県出身のプロサッカー選手たちに声をかけ、12月のオフシーズンに彦根市や長浜市でサッカー教室を開催してきました。

毎年10名程の選手が参加してくれ、滋賀県内の子どもたちに夢を与える活動を続けてきました。

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なぜ自分が続けてきたかというと、滋賀県内の選手はプロ選手と触れ合う機会がなかなかないからです。

子どもたちに必要なことはやはり本物に触れ合うことだと思っています。

それは自分の経験が全てを物語っています。

それ以外に個人の活動としては、滋賀県内や全国各地で夢授業を開催し、多くの小中学校を訪問させていただきました。

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現役時代から行ってきたサッカー教室、夢授業では本当に多くの出会いがあり、最初に関わった子どもたちが街でも声をかけてくれるし、SNS通じてその子たちからご連絡をいただくようになりました。

毎年、滋賀県で活動を続けている中で、やはり滋賀県にリーグチームを創設したいという思いが年々高まってきました。

将来そのような構想がある中で、もっといろんなクラブや地域を見て勉強したい、新たなチームで地域を盛り上げたいと思うようになりました。

30歳で柏レイソルへの移籍を決断し、新たなチャレンジが始まりました。

レイソルのクラブの規模の大きさ、ユースチームとの連携、施設の充実、また新たな世界観に出会うことができました。

なにより自分の原点である井原正巳コーチとの再会は本当に凄いストーリーだなと改めて思いました。

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そこからアビスパ福岡にレンタル移籍し、レノファ山口でプレーさせていただきました。

エスパルスを退団してからの2年は自分の世界観を広げるため、選手としても人間的にも成長する為に移籍をしました。

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セレッソ大阪、清水エスパルス、柏レイソル、アビスパ福岡、レノファ山口。

関西、東海、関東、九州、中国地方。

5つのクラブと5つの地域でプレーさせていただいたことが自分の財産ですし、最幸の時間でした。

全ての経験や学びを滋賀県に還元し、滋賀県のJリーグ誕生に貢献できればという思いで10年間の現役生活を終えました。

セレッソ大阪からプロキャリアをスタートさせていただいたとき10年間の32歳まで現役を続けるという目標を持ってやってきました。

プロ選手生活の10年の中で本当に多くの出会いがあり、周りの人に助けられ、支えていただいた時間でした。

本当にありがとうございました!


人生の第2章は滋賀県にJリーグを!という夢に向かって進んでいきます。

引退を決意し、いろんな葛藤不安様々な意見もいただきましたが自分の後悔のない生き方を選択しました。

自分も子どもたちと同じ目線に立ち、夢を追いかける姿を魅せていきたいと思います。

現在、自分が行なっているサッカースクールの未来スタジアムの子どもたちも同じ夢を持ってくれています。

一緒に夢を共有できる、こんな嬉しいことはありません。

まずはその夢への第一弾の企画としてチーム名を公募致します。

是非皆さん、最幸のチーム名を一緒に考えてください♪

みんなでチームを作っていきたいと思いますので応援宜しくお願い致します!

たくさんのご応募お待ちしております!






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