大きな物語を見つけて、鬱を回避しよう❕❕❕

ひどい言い方をすれば、私の親は〇千万円ほどで大きな物語を買い、生き続けられているのかもしれん。
これを買っておけば、社会的な責任が発生し、働き続けることを余儀なくされる。当然、自分で描く人生みたいなものの割合は小さくなっていくだろうが、自由もまた良いものでないことは気付いていたはずだ。

親としてはそれでいいのだろうけど、当の私が一時期、大きな物語を見失ってしまったことは、どう捉えているのだろうか?大きな物語というのは、私なりに文脈を意味付けしたものなので、親側にそんな意識自体そもそも無いはずだから、本当に理解不能だったと思う。
私自身も、正にその、大きな物語を見失った時には、「大きな物語を失ってしまった!」という自覚は無かったわけで、今になって省察して意味付けしているに過ぎない。しかも、私の場合は見失ったというより、見えなくしてしまったというほうが正しいので、余計に途方に暮れていた。

幸いにもここで自分の命を絶たずにすんだのは、他でもない、親側としての大きな物語が機能してくれたからだと思う。私も直感的にわかっていたのだろうか、親側の大きな物語として存在しているという要素も私にはあるということを。本当にどこどこの建物の何階なら飛び降りに丁度よさそうだというレベルまで考えていたのに、結局は生き延びてしまった。

せっかく生き延びてしまったので、私もその、大きな物語とやらを見つけたほうがいいらしい。というか既に大枠としては見つかっているので、しばらくは余程のことが無い限り、鬱的な状態には近づかないはずだ。


親は、私がこんな回りくどくよく分からないことをネットに垂れ流してるだなんて知らないんだろうな。50歳をとうにすぎてもワインやらシャンパンやら毎晩呑んでるのはちょっと心配です、どうぞご自愛ください

宅浪はやめとけ