言語と身体の偏りが新たな思潮を生み出したのか?

 けっこう画期的な文脈を見つけたので、すぐにでも研究室の先生(vedaお姉さん)に聞いて欲しい。学部1年生の戯言を

 もとはと言えば、「反知性主義」。今の日本の、特にsnsで使われる意味とはやや異なる、リチャード・ホフスタッターが用いていたほうの意味で今回は使ってます

 その、ホフスタッターが用いていた意味(anti-intellectualism)の本質はおおよそ以下。
儀礼という「身体」的要素に重きを置くカトリックに対抗してプロテスタントは聖書という「言語」的要素に重きを置いた。聖書の読解には権威はもはや必要ない。聖書を解釈することは、言語が分かれば誰でも可能。
しかし、「言語」という無限に及ぶといっていいほどの再解釈が可能なものを重視したため、その当のプロテスタントにも対抗できてしまう。現時点でのプロテスタント内での”正統”に反抗する勢力がまた現れてしまうのだ。それが無限に続いてしまう可能性を孕んでいる。”正統”に抗して成立したのがプロテスタントであったはずなのに、、、

というのが、與那覇潤「知性は死なない」でのだいたいの説明でした。私はホフスタッター氏の著書も、森本あんり氏の著書も読んでないことはお許しください、というか今回それはどうでもいい

 ここで重要なことを付け加えますが、この本来の意味を見る限り、反”知性”主義というのは適当な訳語と言えるか、、、微妙ですね。與那覇氏もこの著書では、反”正統”主義と訳すことを提案しています。私もこれに従います

めっちゃ単純に言えば、身体→言語の流れが起きるとその先に何らかの新思潮が生まれざるをえない、ということを暫定的にぼんやりと言えるということですね

 で、私が思いついた仮説というか新たな解釈というのは、この流れがインドに仏教を含む自由思想が生まれたのも同じ流れなのではないかということです。

 まずここでいう当時の”正統”とはバラモン教ですね。このバラモン教ですが、時代が進むに連れて、祭式よりも哲学的議論の方向に進んだように思われます。ウパニシャッド哲学なんてその真骨頂でしょう。もちろん祭式という「身体」的要素を完全に排除していたわけではありませんが、つまり「身体」より「言語」のほうが重くなっていったわけです。

 そしてその過渡期に仏教などが生まれた、と見てみましょう。仏教も当時までのバラモン教を含むインド思想的世界観はある程度は前提にしていましたから、カトリックープロテスタントでの議論の枠組みを当てはめてもよいでしょう。
 バラモン教が「言語」に偏り過ぎた結果、反知性主義が駆動する余地が生まれてしまい、そこに仏教および六師外道などの自由思想が生まれた。と見てよいのでは?という私なりの解釈が出来上がったのです

思えば仏教は、修行という「身体」的要素も含んでいますね。(初期のほうの仏教です abhidharmaや大乗仏教のようなガチガチ理屈っぽいほうの時代のものは別問題)ブッダ自身もおそらく、「言語」と「身体」という対立は何かしら考えていたのではないでしょうか

すごく大雑把な考察ですから、とりあえず先生に聞いてもらって、その先を詰めたいと思います。頭を整理したかったのでとりあえず書き起こしてみた次第です。

宅浪はやめとけ