谷に落ちたり、調子が良かったり にまつわる余計な考え

 調子が良いときと悪いときの差が激しいことを、最近は許してあげれるようになった。できるだけ波が無いように生きたいが、それもそれでつまらない気がする。上下に激しいほうがなんだか、文学的な生き方をしてる気がするのだ。
 しかし、これを許すというのもおかしい気がする。調子が良いとか、悪いとかというのは私の認識の問題でしかない。湿疹ができるとか、顔色がよくなるとか、現実の事実が変わるわけではないからだ。そういう意味では、波の上下を許すというよりは、認識の問題だとして諦める、というほうが正しい。認識の在り方が頼りないのは周知の事実だし、私たちが再帰性というものを良くも悪くも利用して世界を形作っていることもまた同様なのである。
 そういった認識の歪みとか、完全な正しさを持てない部分を、私として受け入れ、愛することでしか、谷底の嫌気がさすような暗さや湿度には耐えられないのだと最近わかったし、いろいろな人が教えてくれた。
 
 異変が起こって初めて人は、その器官の存在に気づく。  的な言説はよく聞くが、これと同じことを、谷に落ちたときにハッと気づかされるのかもしれない。どう認識しようが現前性として確かにここに身体はあるはずなのに、それをどう見るかは認識しだいで、その認識が変われば、自分の気持ちだけでなく身体までもが谷底にいるかのように認識されてしまう。自分が谷底にいるかのように感じられる方向に、ただ認識が変化しただけの話なのだと。認識というものの輪郭が浮かび上がるというか、ほんの少しだけ現前性が付与されるというか。

そもそも「谷底」だって、人間がそう認識しているだけで、実態としてはそういう地形でしかない。「りんご」がりんごではないのと同じように。ただそういったことを良くも悪くも利用しながら生きるのが人間だ、というだけの話なのだ。完全に正しい認識のあり方を保証できない以上、そういうものだと割り切るしかないのだ。
 
 

 谷に落ちたらとりあえず、「モノ」に頼ってみるのがよいと思う。「認識」や「言語」に偏り過ぎているからだ。自分一人では認識が歪んでいく一方だし、自分一人ではそういった認識への責任感みたいなものをきっと背負いきれない。

 具体的には、小説を読みながら、ブラックコーヒーと甘いお菓子 というのが私の鉄板である。認識がどれほど谷底にあっても、小説、コーヒー、お菓子はそこに再現できるのだ。その現前性のある物体たちを用意することができてしまう、というのがどれほど素晴らしいことかと感謝するだろう。歪んでいない認識、とかいうのがあったとして一体どうやって、それも谷底にいる私に、用意できる?

 モノを用意して、それらに委ねれば、私が認識の側に偏りすぎていたことに気づく。私は普段から、自分が認識かモノかいずれかに偏っていないか?と注意しながら生きてはいるのだが、それでも日常の様々な出来事はそうしたバランス感覚を失わせるように私に攻撃してくるのだ。現実世界はその常として、両極端のどちらかを好んでいるような気がしてあまり好ましくない。しかし現実世界としてはそうすることでしか延命の方法がないのだろう。みんなが一斉にコーヒーを飲みながら読書をしてしまったら現実世界はどうなる?そもそも私が飲むコーヒーも、どっかの工場が作ってくれたものなのだ。そんな無数の利害をまとめて調節するなら、両極端のどちらかに偏らせてしまったほうが楽なのだろう。私はそうした困った現実世界にささやかな介入をしているくらいがちょうど良いのだろう。

 谷に落ちている自分も、調子のよい自分も、ただ認識がそれぞれ変わっているだけだとして諦め、愛しさえしてみるというのが、現状で私にできる最善策だ。ただ一つ戒めとして、その状態を目指すことだけは避けたい。調子の上下を諦め、愛する状態をただ傍観したいのであって、決してそれを再現はしてはいけないのだ。もし私が再現に踏み切ったら、私は谷底に落ちる。

 例えば「優しさ」についてだが、「優しさ」は、人間その人の性質なのか、その人が優しいふりをしているのかは、傍から見れば分からないのは当然として、その当人さえもどちらなのか分からないときがある。人間は自由に何かを目指そうと思うことは可能だが、それが完全に自由な意思であったかの保証はできず、何らかの原因がそうさせている可能性は否定しきれない。性質なのか「ふり」なのか。問題は、「ふり」のほうが自然であるように思えてしまうときがあるということだ。「ふり」というおよそ人為的な意味をもつ言葉が自然だなんて、相反するにもほどがある。性質という言葉のほうが自然なはずだ。しかし、優しさなんてものは、行為や言動からしか推定されない以上、性質であると言い切ることができないし、むしろ「ふり」のほうに分があるとすら言える。一体「優しさ」とは「手段」なのだろうか?それとも「目的」なのか??
何が言いたいかと言えば、こうした人間の意志に対する不確かさ、およびそこから生まれる恐怖に首をつっこまないほうがいいということだ。認識によって、モノ以外は幾重にも、無限に説明の可能性があり、それを前にすればただ恐ろしさしか生まれない。なのに怖いもの見たさで首をつっこんでしまうから、私は谷底なんかに落ちるのだろう。私が江戸川乱歩の短編を読むときも、その原動力はいつだって「怖いもの見たさ」なのである。

 自分はどこかで、「谷底」を、そして調子が上下するのを望んでいるのかもしれない。
 それを目指してはならないのは理解しているし、それを目指さない状態を目指すのには非常に困難が伴うことは述べたとおりだ。

 副次的に生まれたもののほうにこそ価値を感じてしまうのはなぜだろう?私はしばらくそういった人間の性質を忘れ、直接的な価値だけを追い求めた結果「つまらない」人間になってしまったという自覚がある。おそらくここ数年の私を注意深く見ている人ならわかるかもしれない。(ちなみにこの観点からいえば、お笑いを直接目指すお笑い芸人というのは、ストイックの極みで尊敬に値する。また、逆にいえば、ムロ㊙ヨシのように、役者なのにお笑いっぽい立場もゲットしちゃっている人は尊敬に値しない。)

 目指さずして目指す  という困難に私は立ち向かっているのだ。

果たしてお笑い芸人とは、面白いという「性質」を持っているのだろうか?それとも面白い「ふり」をしているのだろうか?

 

宅浪はやめとけ