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夜のネオンに溶けてしまえたらよかった

なんだかんだ20代も終わりに差し掛かって、 ふとこれからの人生について考えてみると、何もやりたいことが無いことに気づく。

いや、これは正確では無い。
やりたいことはある。
私はオタクであり細々と創作活動をおこなっているので、もっと解像度高く、自分の解釈を練りこんだ説得力あるものを書きたいと思っているし
老後に向けて健康な身体づくりもしていきたいし、体力もつけたいし、
英語を話せるようになって、いろんな国籍の方と交流してみたいという気持ちはある。

だけどこれを実行するためのやる気、いわゆるバイタリティのようなものが圧倒的に足りていない。
何かを始める、何かをやり遂げるには、それ相応の犠牲はつきもので、苦しいことも辛いこともあるだろう。
それらを乗り越えてまでしたいこととなると、全く思いつかない。

この前、お世話になっている職場の方の引っ越しの手伝いに行った。
そのときもうひとり手伝いとして来ていた方がいて、その方は50代も半ばの独身女性だった。グループ会社で部長を務めているらしい。
生涯独身でいたい私にとって、まさしくロールモデルにしたい女性だ。
だが話を聞いていくうちに、どんどんその気持ちはしぼんでいってしまった。

部長職に就いているくらいなのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、その方は仕事熱心で、そして仕事の中で出来たつながりを楽しみながら維持できる性質をもっているようだった。
「学生時代の友達とかは、もう付き合っている人はいないよ。みんな結婚とかで、生活が変わってしまっているからね」と話すその人は、 
「今付き合っている友達とかは、年齢もバラバラだし、みんな仕事で知り合った人だよ」とも言っていて、  私にはそれがとても眩しく映った。

それだけの繋がりを維持するには、相応の努力がいる。
きっとその方が仕事で打ち立ててきた功績や頑張りを、みんなが評価したからこそその繋がりは生まれたのだろうし、それは素晴らしいことだと思う。
ただ自分に置き換えた時、私にはそれが出来る気がしないというだけで。

思えば学生時代から、人間関係を平穏に維持することにめちゃくちゃ労力を割いていた。
人脈というものを持っている人は本当にすごい。
私は人並みより狭い繋がりさえ維持することに今も昔も手いっぱいだし、
どうしてもなるべく人に嫌われないよう、つまはじきにされないよう振る舞ってしまう。
そんなだから、人と深い関係を築けない。
自分でもわかっているが、こればかりはどうしようもない。
彼氏や親友がいる人々は、本当に器用だ。どうしたらそんな生き方ができるのか、まったく見当もつかない。

その方と話していて、「いい子だね~」と沢山褒めてもらった。
そのときは嬉しかったけど、今は心にわだかまりとなって残ってしまっている。
他意の無い雑談にふさわしい純粋な誉め言葉だったそれを、私はどうしても「つまらない子」という裏の意味があるように感じてしまう。
自分で自分のことをそう思っているから、そう捉えてしまうのだ。

熱しやすく冷めやすく、移り気で、これといった特徴の無い私。
子どもの頃小さなコミュニティで「絵がうまいね」と褒めてもらった思い出にいつまでもとらわれて、創作についてろくに学びもしていないくせに、一丁前に劣等感は感じている私。
人脈もお金も無い私。20代後半にもなるのに、無知で阿呆で根性無しの私。
そんな私でいることが大変につらくしんどくて、夜の街を歩いていると、このままその闇の中に溶けてしまえたら…と思うことが度々ある。

ぼんやりとしたネオンは儚くてきれいだ。
夜の街を歩いていると、それ以外にも美しいものに沢山出会う。
呼び込みをしている居酒屋の店員さん、
山盛りの荷物を抱えた運送業者さん、
1日を終えた喜びで酒を酌み交わす人々。
人の営みを感じるそれらの光景に、溶けていってしまえたらよかったのに。
そう考えたことは一度や二度ではない。

夜眠る前はいつも「明日は目が覚めなくてもいいな」と思いながら眠る。
だけど朝は来る。そうして日々は続いていく。

特別に生きたいわけではないけれど、生きなければならない理由はある。
最愛の母を遺して先にいくわけにはいかない、その気持ちが私をこちらに引き留める唯一絶対の大きな重しだ。
ただ、それだけのために生きるには、私は欲張りで、軟弱すぎる。
だから、うまいやり方を探していけたらいいなと思う。
私が「こう在りたい」と思う私と、「こうすべき」「こちらの方が向いている」私。
バラバラでも、いや、バラバラだからこそ、うまい妥協点を探っていける。探っていきたい。

自分を惨めに思わないように。
自分をもう少しだけ気に入れるように。
もうちょっと、息をするのが楽になるといいな。

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