「情報」と「知識」は違う

今回は、私が常々考えるようになってきた「知識」というものについて、私なりの概念みたいなものを伝えれれば、と思う。

今や誰もが当たり前にインターネットを使って世界中の叡智に触れる機会が与えられている現代社会。「超情報化社会」とも呼ばれて久しい。

さてそんな中で「学校の授業なんて無駄だ!」という声が多く見かけられる。「知識はインターネットが教えてくれる、人から直接教わらなくても自分から学べる」といった声だ。特に小学校高学年から高校生くらいに多く聞かれる声のように思う。

私自身は学校の授業そのものを無駄と感じたことはないが、言いたいことはわかる。だがこの説にはいくつかの点から反論したい。

まず一つは「そういうものがあると知ったきっかけは学校の授業ではなかったのか」というところ。
あらゆる物の知識とは、自ら求めるにせよ他人から教わるにせよ、知るきっかけがなかったら触れることすらできないものだ。学校の授業は「知るきっかけ」として大きく働いていたのではないかと改めて思う。学校の授業がなければ知ることすらなかったような物事は多数あったのではないかと私は感じている。そしてこの「知るきっかけ」がなければ学ぶ意欲など沸かせようがない。

2つ目に「義務教育」というものへの考え方がある。自分の将来へのビジョンを考える上で、幼い内から真剣に自分と向き合い、自分の進む道に向けて覚悟を完了した一部の人間達からすれば、恥をかかない程度の成績さえ残しておけば、後の人生で必要のない知識もたくさんあるだろう。だが世の中「そうではない」人間のほうが圧倒的に多い。そういった大多数の人間において大事なのは何より「社会から落ちこぼれない」ことだ。生きるためには知識を得なくてはならないし、知識を得るためには努力しなければならない、そしてその努力の結果は必ず自分だけのものになっていくことを、日本全国全ての青少年に叩き込み、自分に自信を持たせる。教師のレベルや公教育の現状についてはともかくとして、私は日本の義務教育カリキュラムであったり教科書そのもののレベルが低いとは思わない。

そして最後になるが「インターネットで得られるのは書いた人間が誰かすらわからない他人の知識であって、それはあなたにとってはまだ【ただの情報】に過ぎない」ということだ。たとえ情報の発信元の人間が氏名と顔を公表していたとしても、その人のことをあなたが知らなければ、それは信用していいのかもわからない赤の他人の情報に過ぎない。

ではここで主題に入ろう。「情報」と「知識」とは。同じものとして捉えている人も多いが、私は別物として捉えている。
私は「情報」とは「モノそのもの」であり、「知識」とは「モノを理解するための自分の言葉」だと認識している。ここでいう「自分の言葉」とは「相手にキチンと説明するための適切なワード」と捉えて頂きたい。話す相手に対して説明するということは、その言葉の意味を自分なりの解釈で相手に論理的に説明できなければいけないが、その言葉そのものは普遍的なもので構わない。大怪我を経験したアスリートが、メディアの取材に対してケガの痛みを説明する際に、難しい言葉は使わなくても生々しく聞こえてはこないだろうか。学者や研究者が博物館の見物客であったりメディアに対して答える時に、難しい言葉だらけで何がなんだがよくわからなくとも、そういうものなのかと納得させられたりはしなかっただろうか。そういうことだ。

つまり私が言いたいのは、インターネットで検索して得られるのは「あなたの知識」ではない。「書いた本人が持つ知識と情報」にすぎない。それを「あなたの知識」にできるかどうかは皆さん次第なのだ。世の中には知らなくてよかったと後悔することも多いかもしれないが、それを理解できた、知ることができたという点で言えば、知らない人達より賢く、楽しく生きられるはずだと、私は思う。

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