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喪中を抜け出す

コロナショックの以前から関係のある不倫の恋人と、数か月ぶりに再会した話です。

■ 会えないあいだに書いていた日記:

■ 前回、3月のデート(前半・後編):


きのうの美容院の帰りにピエール・エルメに立ち寄ったら、年に一度の「マカロンデー」と言う触れ込みで、20種類以上のマカロンがいまだけ一堂に、という。カウンターに他の客の姿がないのをいいことに、売り子の女の子に、香りや口当たり、感想などを聞く。黒目がちで小ぶりな一重まぶたに、まばらな眉毛をチャコールで塗りつぶすようにしたアイブロウが、表情豊かに動く。どこへ行ってもマスク越しの接客は、仕方のないこととはいえ何となく気持ちが暗くなってしまうけど、いちど距離が詰まってしまうと、目や口と言った限られたパーツが饒舌に動くので、楽しい。
自分でマカロンを購入したことが一度もなかったので、冷蔵保存が必要な代物だったことを初めて知る。あすの移動時間を想定しながら、保冷材の量についてもアドバイスを受ける。彼がしきりにラブホテルの話をしていたので、部屋に入ってすぐに冷蔵庫に入れれば、ギリギリ大丈夫だろうとタカをくくる。

新幹線に乗ろうとして、このマカロンを忘れてしまったことに気付く。何だかフランボワーズが恋しかったから選んだひとつ(イスパハン)、スミレの風味を知りたくて選んだひとつ(アンヴィ)、「私はシナモンが苦手なのでおススメしませんが」と彼女が打ち明けたのをひとつ(モザイク)。ここまでの3つを箱詰めしたのを見せてもらったら、緑色が足りないね、という話になり、そうして選んだ、さいごのひとつ、オリーブ。ひとりで食べるにはちょっと重いなあ。
仕方がないので、新幹線口近くの成城石井を覗く。きっと私たちはラブホテルで酒をやるだろうから、常温でもまあまあ楽しめるような、ちょっと気の利いた乾物なんかがあるといいかも、と思うけれど、これがなかなか見つからない。フランボワーズへの未練があり、赤とロゼのスパークリングワインの缶を1本ずつ。惜しげなく氷を入れて飲んでしまってもいい。

移ろう風景を車窓からぼんやり眺めていると、どこかの田畑と思しき区画の四隅に配置された案山子にぎょっとする。私にとって、カラスはニンゲン以上に頭が良いという評価で──ヒト避けに粗末な案山子なんぞで効果があるのかしら、と思ったこともあったけれど、こんなふうに(一時的にでも)ヒトの目も欺けるのだから、なるほどある程度には合理的な害鳥対策なのだな、と思う。

突然トンネルに入る。

真っ黒になった窓を鏡がわりに、不意のタイミングで移り込んだ私の顔は、何だかぎとぎとしている。不倫(と思しき)カップルの女の表情について

一見して「そう」と分かる連れ合いが多かった。(略)たいていこういう時に目がいくのは女の方で、その誰もが数十分後のセックスを予期し、脂ぎった顔がグロテスクに映った。
──「入水と情死の様式について(人倫に悖る)」

こう書いたことがあったけれど、きょうの私も、まさにこんな感じで──鼻の下が伸び、瞼はぽてっとしている。セックスするときの顔だ。だらしない表情に反して、落ち着かない腰回りをしゃんとさせるのに背筋だけは不自然に伸びていて、なんというか、本当にちぐはぐで、下品な佇まいであると思う。食欲がわかずに朝食を取らないまま流し込んだブラックコーヒーと、出発から30分以上読みふけった『女帝 小池百合子』のせいで、乗り物酔い。瞼を閉じて、はやく、はやく、と願う。


改札には、優しげな雰囲気の細身の男の子が誰かの到着を待っていて、自粛を持て余した社会人かしら、と思う。恋人からは待ち合わせ時間の10分前に「ちょっと早く着いたので駅で待つよ」というメッセージを受信していて、近くに車を停めているはずだからロータリーに下りてみよう、と思うと、あの男の子がこちらに向かって歩いてくるので、そこで、彼が私の、私の恋人であったことを知る。髪が伸びている。この数か月のあいだにずいぶん若返ってしまった。やっぱり、隣に並ぶのが恥ずかしい。数十分前、車窓に映り込んだだらしない表情を思い出して、頬が熱くなる。

抱きしめてもいいかな、とストレートに聞かれたので、答えに窮してしまう。抱擁のなかで、会いたかった、来てくれてありがとう、と降ってくる。太陽のにおいがする。
もしよかったら、ここから小一時間走って、史跡を見に行かないかと彼が言う。自然公園の中心に、小さな古城跡があるのだという。いいね、天気も良いしと応じると、私の足元を見た彼が、

「少し歩くけど、大丈夫?」

と聞く。いつものようにハイヒールのパンプスを履いている。岩場とか、よっぽど悪路じゃなかったらへいきよ、と答える。ストッキングの替えも持っているし、いざとなったら裸足で歩けるもんね、きっと人出も少ないし、と意気込むと、多分そこまでじゃあないはずだけど、と言いながら、車が走り出す。

運転する彼が、ここ数か月の私たちを紐解きながら、ぽつりぽつりと話し出す。もっときちんと自分の感情を表現できたらいいのに、とか、それでも一緒にいたいよ、とか言う。いじらしい顔をしている。
彼に会うのはこれで最後になるかもしれない。きょうが楽しく無事に終わったって、じぶんの感情をきちんと表現しきれずにいるのは私も同じで、そうして残った澱をうまく処しあぐねて腐臭を放ち、どうしようもなくなってしまって、この恋の幕引きをする、ということだって、十分に考えられるわけで……。彼は「会ってしまえばポジティブな変化が生まれる」と無根拠に信じ込んでいたようだったけれど、私にしてみれば、たとえば何の変化も生まずに今日を終えたとして──それは決定的に、絶望を意味するといえる。急場しのぎの粗悪な停滞がこれからも続いていくなんて、耐えられそうにない。薄氷を踏むような気持ちで、ここにいる。
……とは言い出すことができず、とりあえずはいい加減な気持ちで、「一緒にいようね」と、つとめて明るい調子で言う。この恋が決定的に延命不能になったとき、呪いとして発効するように、言う。彼は少しだけ安堵したような表情で、この話はまたあとできちんとするから、と言う。

明日をも知れない私たちの数か月ぶりの再会なら、たとえばハンドルを操る横顔に見惚れたり、私の腿に置かれて繋いだままの彼の左手を見つめたり、そういった「恋人らしい」情景をできるだけ記憶に刻み込むのが正解だったのかもしれない。そうしたら、この恋を喪ったとしても、記憶に暮らす彼の総体が、少しだけ増えるのだから。
とはいえ私がいまこの瞬間、生まれて初めて足を運んだここで、何を見て何を感じるか、そうしたことも、彼の面影と同じように大事にしておきたくて、遠くの山肌とか、耳馴染みの薄いチェーン店の看板とか、カーブに差し掛かるたびに大きく動くティッシュ箱とか、そういったものを網膜に焼き付けるように、見つめる。

「でもさあ、これだけ、たかが世間の動きに呼応して、自分の感性の絨毛が死ぬとは思っていなかったよねえ。私、すっかり疲れちゃった。自粛とか、そういう直接的な行動制限の話じゃなくってさ」
「ほんとにねえ、本当にそうだ」
「つとめて無気力を気取っているような態度の人っているじゃない。私、そういう人が芝居臭くて嫌いでさ。だけど、こうなってからは……そういう人の気持ちがわかる気がする」
「ああ、共感というか、思いを馳せる余地が生まれたというかね」
「無気力でいるしかなくなることって、何度もあったもの。防衛本能のひとつかもしれない。処しきれなくなって、新しい情報を摂取したり、反応するためのスイッチが、無意識的にオフになる」
「そう、心がうまく動かせなくなるんだよね」……

目的地に近づくにつれ、活気のある街並みになっていく。コインパーキングに駐車して外へ出ると、信じられないような強い陽射しに驚く。

「なみちゃん、日傘はどうする?」

置いていくに決まってる、手が繋げないもの。公園内ではマスクを着用せよという。幼いころに近隣に住んでいたという彼は、小学校だか中学校だかの遠足で、何度もここへ足を運んだことがあるのだという。ぐるりと巡らされた堀を覗きこんで、彼が言う。

「あれえ、ここのナマズ、もっと大きかったと思うけど……ここの奴らって全員が【主】クラスなんだよ」
「きみが大人になっちゃったからじゃないの」
「いやあ、前に来たのだってそんなに大昔のことじゃないはずだもん」

訝しむ彼に手を引かれて歩いていると、堀を渡るように架けられた橋が見える。

「少し遠回りをして、あそこから渡って行こうか」

城跡のほうに通じているらしい。赤色のアーチに、およそ1年前の──彼を知る少し前の記憶が蘇る。友人と連れ立って旅した仙台の風景だ。

「そのときもちょうど、あんな橋があってね……ちょっとした離れ島に行けるの。友達が言うには、あれ──橋を渡ってしまったら、二度と戻ってこれないって。そういうモチーフが橋だって。もちろんこれはものの喩えで……橋を渡る【以前】と【以後】では、関係性が変質するって、そういう話よ」

スエードを巻いたヒールが砂利に沈む。あの小さな橋を渡る・渡らないという分岐が、そのまま、これからの私たちの行く先を暗示するような気がして、もう戻れない関係に踏み込んでみたいような・それはとっくの昔に達成してしまっているような・とはいえこれ以上傷を負いたくなくて、引き返してみたいような……そうした濃淡に歩みを進めると、「通行止め」のプラカードが鎖で吊るされていて、即席の占いが示す私たちの行く先は、あんまりよろしくないものなのかしら、と思う。さっきから彼は気の利いたことを言わないので、ひょっとしたら困らせてしまったのかもしれない。


一通り散策を終えて、敷地内の小さな博物館にも立ち寄り、公園を出たすぐ、気取らない店構えののれんをくぐる。私はわさび菜ととろろの蕎麦を、彼はざる蕎麦の大盛りを、ついでにニジマスの塩焼きも頼もう、と注文すると、焼きあがりには想定以上の時間がかかるようで、馬刺しに変更。ドライバーの彼が、日本酒のメニューを未練たらしそうに見つめている。飴色の木の吊り戸棚には、メニュー通りのラインナップで地酒の瓶が並んでいる。

「こんど、いつか夜にも来たいね」

意図せず未来を志向するような言葉が口をついてこぼれてしまい、自分でも内心でひそやかに驚いてしまう。少しの間のあと、彼が「そうだね」と笑う。彼はこういうとき、癖なのだか、厨房だとか店員だとかのオペレーションをじっと観察している。そういうときの彼はどこか遠くにいるので、こちらに戻ってくるのを待つしかない。

退店を告げるとき、会計を済ませるとき、彼はなんども「おいしかったです」と伝えていて、やっぱり善良な男だと思う。去り際に店内の様子をちらりと見てみると、小さなテーブル席には手作りとおぼしきビニールのシールドが張られて、向かい合う客どうしが透明に分断されている。座敷席の卓は大きくて、特別の措置が施されてはいないにしても、向かい合って座れば距離が遠い。私たちは促されるままカウンター席で膝を寄せ合って過ごしていたけれど、おばさんの計らいか、偶然のめぐり合わせか、ちょっと分からない。

城下町のような風情の商店街を少し歩いたところに酒屋を見つけ、ワインセラーの前で、「赤と白、どっち」と彼が聞く。ここに来るまでフランボワーズを欲しがっていた甘えた喉は、つけあわせの蕎麦豆腐に添えられた山葵でもってきりっと一新されていたから、

「白がいいよ」
「だよね、おれも」

冷えたのがいいね、ホテルに着いたらすぐに冷蔵庫に入れなくちゃ、と彼が呟く。氷入れちゃえばいいじゃん、と子供じみた提案を押しとどめる(スーパーで買った缶の安ワインならまだしも……)。例えば水出しコーヒーのような喉越しで、躊躇なく氷を入れる幼い愉しみを提案したら、彼がそれを拒絶することはないにしても、心中でがっかりするかもしれない。こういうとき、味オンチの子供舌は沈黙しておくに限る。

凶悪な暑さになっていた車内で、駐車料金の精算を待つ。申し訳なさそうな顔で彼が駆け寄ってきて、小銭が足りない、と言うので、財布を開いてみると、昨日ファスナーに噛ませてしまった1000円札が顔を覗かせる。オフィス近くのATMには拒否されてしまった紙幣を、ひょっとしたらダメかも、と言いつつ手渡すと、精算機は難なくそれを呑み込んでしまって、ちゃらちゃらした銀色の硬貨が手のひらに重い。あの紙幣は、恋人の手を介して、遠く名古屋からやってきた私の手を離れたのである。貨幣は身軽だ。


ラブホテルに入って、史跡散策で汗だくになってしまったままの身体を繋ぐ。シーツにところどころ汗じみを作ってしまって、シャワーを浴びる。泡風呂で体を寄せると、3か月前、タイルの冷えた山間のモーテルの浴室、いやに深いバスタブで、0.5人分相当の距離を空けながら、ぼんやりと彼の横顔を見つめていたことを思い出す。数十分後にはふたたび離れるのが分かっていて、手を伸ばせばすぐに届くのに──物思いに耽る彼が、遠く遠く遠くに感じられて、ずうずうしく身を添わせることができずにいたように記憶している。
なにかが揮発する感覚があり、意図的にこの恋の息の根を止める手段を見つけたと悟った、あの日。まさに「その日」、彼から持たされた手製のジャムの空瓶の首には、同じ日に私が贈ったチョコレートの化粧箱にあしらわれた銀色のチャームを括って、いまではメイクブラシなどを収納している。未練たらしい。

さっきのワインをひとくち飲んで、

「あ、これダメなやつじゃん」と私。
「おいしいね……すいすい行っちゃうやつだ」と彼。

青い果実をぎゅーっと絞って、もろもろのノイズをすべて潔く濾過したような、引き締まった爽やかさだ。芳醇へ成長する可能性すら切り捨ててしまったような潔癖が、あっという間に駆け抜けていく。そういえば彼が以前に名古屋に持ってきてくれたスパークリングも良かったと記憶しているけれど、何せ馬鹿舌なので、「美味しかった」以上の記憶がないのが恨めしい。
氷入れちゃおうよ、と彼が言うので、思わずにやりとする。ワインに躊躇なく氷を入れられる男は、恋愛向きだと思う。そういうひとは、たいてい私の粗野を大目に見てくれるから。アイスペールの氷と共に彼がルームサービスで頼んだハーゲンダッツは、バニラとクッキークリームの2種類。一口ずつ交互に味わう彼の膝枕で、ソファのひじ掛けに乗せた裸の脚をぶんぶん振ってあそぶ。世界で一番かわいい怠惰。

「やっと分かったけど、おれが嚥下する【1回分】って、きみでいうところの【数回分】なんだよね。やっと分かった。容量が違うんだ。おれは多分、じぶんで思っていたより口腔がでかい。そんできみのは小さい」

そう、そうなんだってば。「小鳥みたいな口蓋」って、初めてのキスの感想に書いたくせに。小鳥みたいな口蓋で、あんなに大きいのをどうこうしてるんだってば。
跪いて、ソファにくつろぐ彼の足の指を食む。気持ちいいね、なんだこれ、と彼が笑う。不完全な勃起のまま露出させた亀頭は、桃色がみずみずしくって、ちょうど未成熟の果実のよう。シャワーの湯を包皮が留めておいたのか、きらきらあどけなく光っている。いつも見るこれは、赤黒く張り詰めているか、熟したあけびのようにうなだれている。こんなにいたいけな表情をしているなんて。

マットやろうよ、ローション使って、と彼が言う。体中を粘膜にして、夢中になる。性器も、性器じゃないところも、性器になりそうなところも、全部性器になる。私たちはとうとう白痴になってしまって、お互いの肉体に溺れてしまって、間抜けなつがいの成れの果て。
なにひとつ似ていない私たちにも、同じ性器がある。私が挿し入れると、きみも力を抜いて、と彼が言って、同じように挿し込まれる。彼はときどき同意なく私を暴き立てて拓くので、たまに恐ろしさを感じることもあるけれど、今日はあんまりこわくない。あのワインのせいかもしれない。

永久にこうしていられる気がする。

どのくらい挿し込みあっていたか分からなくなったころ、「ちょっと休憩」と彼が申し出る。ふたりで間抜けな叫び声を上げながら引き抜いて、体勢を立て直そうとするとマットから転げ落ちてくすくす笑い、彼の陰毛がシャワーの水分を含んで5・5分けになっているのを見て、なにこれ、金八じゃん、と使い古されたジョークで、ついにげらげら笑い転げる。ほんとうの白痴になってしまう。

彼が眠る。持て余した時間でツイッターをやったり、洗面台の前に立って、体中の痣のなかでももっとも鮮やかなもの──左の乳房が映り込むようにして、鏡ごしに写真を撮る。咬み傷や、私を開くのに彼が押さえつけたせいで、ほのかに発赤のあるところをぐっと親指で押し込んで、鈍痛できょうを反芻する。彼が私に与える痛みなんてたかが知れていて──たとえばSM的な文脈には遠く及ばない程度のものだけれど、その痛みは、十分に持続性を持った浸潤という感じ。そういえば、あの歯列が私に食い込むときはどうしても目を開けていられないけれど、彼はどんな顔をしているのだろう。寝息を立てるこの男が、抜け目ない蛇なのか、ひとなつこい犬なのか、よくわからない。

ふと思い立って靴が並んだところに下り、相応の歩数を歩いたパンプスを拾い上げてみると、信じられないことに、名古屋を出たときからまったく変わらない状態で、驚く。ちょっとくらい、傷がついていたっていいのに……。石畳に足を取られたことも、細かい砂利に沈んだ感触も、確かに覚えているのに。素足と同じベージュのスエードは、ほんの少し砂を被っただけのようで──あの遊歩道を彼と歩いたこと、橋を越えるチャンスすら与えられなかったこと。抜けるような晴天の青空を背負って、真正面から向き合った大昔の城跡に圧倒されたこと。展望台でしゃがみこみ、マスクを着けたまま、どうしようもないほど涼やかな風をごうごうに浴びたこと。酒屋から駐車場に向かう道すがらに見上げた、入道雲の始祖のような、夏の雲。あの全部が、ほんとうでなかったら、まぼろしだったとしたら。

ベッドに戻って、きれいな寝顔を見ながら、やっぱりね、と思う。忘れんぼう。「きちんと話をする」って言ったこと、やっぱり忘れちゃったのね。別にいいけど。期待してない。どんな風に想っていたらいいか分からずに、ひとりで戸惑い続けたこの数か月に戻る気なんて、私にはさらさらない。終電の時間を調べ直して──予定より1本早いのに乗ろうと決める。「いつか夜にも来たいね」——昼には蕎麦屋でああ言ったけれど、きっと私は、もう二度とここには来ない。期待してない。最後の最後、もういちどだけ抱いてほしくて、おおげさに腕枕に収まるような動作で、起こしちゃった、ごめん、とか言う。期待してない。会いたかった。期待してない。

体内で腫れあがったところを蹂躙されたり平手をぶたれたりしているうちに愛憎で混濁してしまって、上に乗ったまま、もう終わりにしようよ、と口走ってしまう。




「あんなに泣いたの、成人して初めてだよ」

彼の年齢から20を引いてみる。その真偽はさておき、それなりの期間、彼には「泣いて取り乱す」というムーブを採択することがなかったのだな、と思い至り、ひょっとして、今日のことで私を特別だと思い込んでしまったらどうしよう。彼においては代替不可能の存在でありたいと常々思って来たけれど、どうせなら、もっと希少なやつがいい。喪ったあとに、胸をかきむしって死にたくなっちゃうような。

「こうやって会えたから──きみの書いてた日記を読んでもいい? 有料のやつ」

この数か月、彼に向かう気持ちが制御できずに日記を書いている。読まれたら困るようなことや、とくに後ろ暗いこともないけれど、この時勢において繊細さの増した彼の目に触れたら、きっと要らぬ感傷を引き起こしそうで──noteの「有料」記事とすることで、購入というステップをあえて踏まなければ、核心まで辿り着けないようにしておいた、いくつかのテキストがある。

「買ってもいいけど……読んだらきっと、ずたずたになっちゃうよ。あなたのことばっかり書いてる。あなたの性格について分析したこともある」

試しに幾文かを抜き出して読みあげてみると、「うわーっ、超当たってんじゃん、やっぱり読まないでおく」とジタバタしたあと、「ちゃんとおれのためにゾーニングしてくれたんだ……きみは賢いなあ……」と言う。ほらね、やっぱり読まないでよかったでしょう。きみのこともきっといつか本に綴じるけれど、もしそれを読んでくれるとしたら、該当部分は読み飛ばしたほうが賢明かもしれない。

「こうしてみると、私の腕って、女の腕なんだね」

日焼けをしたかも、と天井に腕を伸ばしてみると、そうだよ、全部女だよ、と応じて、のっぺりとした私の腕とは真逆の──骨格だの血の管だので美しく隆起した、自分のやつを添わせる。いままで抱き合ったどの男より華奢で、可憐で、たまに粗野で、綺麗で、どうしてあなたが私に執着するのか、ほんとうに分からない。きみのほうがよっぽど多く美しさを持っているくせに、女を翻弄することだってたやすいだろうに、私なんかを隣に置いて、なにが楽しいのだろう、さっぱり分からない。

見た目にぜんぜん美しくない私は、スカートを履いたって、化粧をしたって、自分が世間的に求められる女にはなれないのは承知しているのだけれど、それでも私は、女をやっている。好きでやっている。好きで女を自称している。かわいそうで、窮屈で、それでもどうしようもなく可愛い「女」という容れ物が好きだから。
この男は、鬱陶しいくらいにそれを嗅ぎつけては私を褒めそやすから、彼の美しさと私にまつわる評価についてはまったく別個の事象であるはずなのに、なんだかそれを都合よく混同してしまって、世界に許された気がして、とくべつ甘美な承認に蕩けてしまう。彼が表現するときには、私はいつだってどうしようもなく「女」で──私は彼のレンズを通して、自分が女であることを再認識することができる。情けない自白ではあるけれど、今の私を女たらしめる主犯格は、この男であると認めざるを得ない。

「史跡見てさ、蕎麦食って、酒飲んで、セックスして。完全に中年だなあ、おれたち」

私を駅に送る車中で、恋人が笑う。
でも、あんなふうに傷つけあって、あんなふうに求めあって、いかにも身勝手な子供の恋っていうか……子供でももっと分別があるよ、タチが悪いね。

たとえば大人になってから陥る恋って、往々にして「青春時代のやり残し」を回収するという語られ方をすることが多いけれど、こんなやり残し──あなたが前に「子供の頃に使っていた手馴染みのよい文具が、偶然他人の手から現れた」と表現したような恋が、中年にさしかかった私たちの目の前に提示されたとして、それを見送るという選択肢が、果たして残されていたのかしら、と思う。「やり残し」? みんな、こんな素敵なやつを経験してきたの? 戸惑っているのは私たちだけ? まさかね。

最終電車の時間が迫って、券売機のタッチパネルの操作に戸惑っていると、後ろから覗きこんだ彼が、「ここ」「ここだよ」とひとつずつ示す。別離を惜しむ間もなく改札に切符を吸い込ませようとした私に、

「行ってらっしゃい」

と彼が言って、ああ、これは不倫であったと気づいた。




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