12月8日の日記、持続可能を愛す

少し前に知人の男性が、私の耽溺ぶりを見て「きみのような女は怖い」とか言っていて、よくよく話を聴くと、男を崇拝して恋愛行為に没頭するような女が怖いという。わかる。

偶像にも生活はあるのだ。男のみっともないところも、そしてそれをむき出しにして「信仰を改めよ」と言い渡す不遜さの履修を終えていないことも、女はたいてい知っている。知ってるわよそのくらい! 「きみを貶めるつもりはないんだ、」という弁解を額面通りに受け取って、私が彼に何ら毀損されたような気持ちにはならなかったことも、書き残しておく。


新しい恋人は、今でこそそういうことを口走ることは無くなったけれど、通じて当初はしばらく、「女の望みを叶えられなくて何が男だ」と鼻息が荒かった。恋愛に没頭する私のあり方を是としない先述の男性とは真逆のように見えるけれど、「できるだけ互いの人生に無理なく、きみと愛し合っていきたい」とサステナブルを提唱する彼のふるまいをみると、結局、先述の彼のような「ゆるやかさ」を希求する気持ちが確かにあるのが分かる。私は気性が激しいけれど、こうした「ゆるやかさ」が、個々人に要請された社会的態度を実現するための方策のひとつであるならば、私だって、自分の内奥においてそれを積極的に採択したいと思う。関係性の継続を企図する現実的な試みというのは、外面に現れる激しい愛し方と必ずしも同一のものとは限らない、と思う。


いつ心中しましょう。

明日の朝目覚めて最後に交わったら、そのまま入水しようと約束するような熱量を表現してほしい。その一方、「ちょっとお手洗いに」と私が席を外したところで、終電とか、保育園へ子供を迎えに行く時間だとかを気にかけてほしい。サステナブル。

私たちってばただの「大人」でさ、社会的な属性とはとうとう不可分になってしまったでしょう。帰る家があるのがこんなにも重いのだということは、いつだって私に新鮮な驚きを与えてくれる。そして、そこから逃げ出したいなんてみじんも思っていないことも(汚れたままシンクで溢れかえる食器や山積した洗濯物をみると、たまに思う)。




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