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呪術入門

お気に入りの頬紅を失くしてしまった。SUQQUの「焦紅(こがれあか)」。

いきさつは分かっている。

もうすぐ2歳になる子どもは母の毎朝のルーティンに執心しており、私が化粧を始めるやいなや足元にまとわりつき、化粧品をひとつひとつ奪い取って、てちてちっと駆け出してしまう。

強奪品を放り込む「ズタ袋」も決まっていて、私が毎日使っている仕事用の鞄に、エスティーローダー、ランコム、イプサが次々と放り込まれていく。まがい物では満足しないのだ。

「仕入れ」に満足すると、今度は一つずつ、それを取り出しては子供用の机に並べ、まるで店屋のようなことを始める。強欲で愛らしい。お気に入りはシャネルの美容液のチューブだ。香水を買い求めた時にサンプルとして配布されたミニチュアのようなものだが、子どもの小さな手にかかればフルサイズのようにも見える。

子どもをいなしながらメイクアップを進め、使い終わったものからうやうやしく「納品する」。取引先の興味が教育テレビのキャラクターに移った隙を狙って、「商品」たちを自分のポーチにしまい直すのが朝のタスクのひとつだった。いつもはひとつ残らず回収するところだが、どうやら頬紅を救出できなかったらしい。


私は化粧品が好きだが、蒐集癖があるのは口紅だけだ。

ファンデーションやチーク、アイシャドウも、基本的には「スタメン」の一つずつしか持っていない。その日の気分やドレスアップと調和する役割を背負うのは、私の顔の上では専らくちびるなのだった。

だから、「焦紅」を失ったことは痛手だった。替えがきかないのだ。色白なので、頬紅をひかないと途端に血色悪くみえてしまう。生活に疲れた主婦そのものだ。気が滅入ってきた。

どこを探しても出てこない。私は本格的に途方に暮れた。おもちゃ箱を何度もひっくり返す。悲しくなってきた。たかが頬紅を失くしたくらいで、涙がにじむくらいに悲しくて、悔しい。やり切れない。

「焦紅」を雲隠れさせた張本人であるはずの子どもに、両腕を広げて抱きしめてもらう。悪意なんてものはないのだ。失くして困るようなものをおもちゃにさせた私が悪いのだ。

胸にどす黒く広がっていく悲しみの澱が、見当違いの暴力をまとわないように、やわらかい頭皮の匂いを嗅ぎ、頬紅なんて必要としない、血色がよくて柔らかいほっぺたにキスをした。


リビングで私の後を付け回す子どもをなだめる夫に言いふくめ、私は寝室に入った。ベッドに突っ伏して、SUQQUと私の思い出を回顧した。

あれは頬紅だが、薄橙から濃橙のグラデーションになっている。濃い方を軽くブラシに乗せ、鼻梁を際立たせるように眉頭から落とすとシェーディングになる。

イプサの4色パレットはたびたび雑誌を賑わすが、私からすればあんなものは全然画期的でない。だって機能が先行しているからだ。

「焦紅」はそうではなかった。

頬紅としての美しさ、有用性、機能……そうしたものを求めていくうちに、しぜんと他の用途がひらけてしまったという感じなのだ。「焦紅」本人は頬紅然としているくせに、シェーディングとしてもはなはだ優秀で、そのうえしかも、美しい手鏡としても遜色ない風格を漂わせるのだ。このあり方を美しいと呼ばずして、なんと言えばいいのだろうか。


「焦紅」を手にした日のことは今でも覚えている。これは出産後に初めて買い求めた化粧品だった。

子どもの生後数か月くらいのことだろうか。夫に世話を任せて映画館に出かけた。スター・ウォーズのエピソード8だった。

初めて子を産んだばかりの私は、数日ののちに私の後を追って映画館へ出向いた夫よりも多くのメッセージを受信した記憶がある。鑑賞後の感情の動きについて、詳しくは忘れてしまったけれど、何だか無性に上を向きたくて、自分を鼓舞して高揚させるような仕掛けが日常に必要だと確信した。

熱に浮かされたように髙島屋に寄り、SUQQUのカウンターへ駆け込んだのだった。自分よりもうんと若い店員に色を選んでもらい(白い肌とそばかすが印象的な痩身の美女だった)、頬紅と口紅を新調した。心持ちはまさに戦化粧だ。


SUQQUがそれぞれのカラーバリエーションに与えるネーミングは秀逸だ。「焦紅」なんてその最たるものだろう。

香水はシャネルのココ・マドモアゼルを愛用して久しい。シャネルの香りや哲学は、私を「生物学的」に女にする。SUQQUのネーミングは、そうして仕立てた「女」を「日本の女」にする魔法を持っているのだ。「焦紅」。シャネルが作った女が着物をまとって焦がれているのだ。人妻の私が誰を思って身を焦がすというのか、ばかみたいに艶っぽくて陳腐なシチュエーションに吐き気がする。

頬紅のパッケージもこれがまた大変よく、つるんと濃い藍のような黒色と、蒔絵を思わせる鈍い金色のコンビネーションが美しい、薄くて小ぶりなコンパクトだ。ソリッドで直線的なのに、四隅のひかえめなアールが心憎い。

さらにじっさい、SUQQUのプロダクトは優秀だった。

薄化粧の日も、厚化粧の日も、商談の日も、母親のつどいに参加するときも、子どもと二人きりで過ごす休日も、夫と背伸びしたディナーにしゃれこむときも、「焦紅」は私の頬を染めてくれた。2年近くを連れ添ったのだ。もはや体の一部といってもいい。


SUQQUの魔法を失った私は、失意に暮れてとぼとぼと会社に向かった。

あまりにも私が落ち込んでいるので、夫もあちこちを探してくれたようだが、これは私の問題なので、探さなくてもいいよ、と告げて家を出てきた。

涙があふれてきた。

「焦紅」がここまで私にとけこむなんて、思っていもいなかったのだ。今日の帰り道に髙島屋に寄り、同じものを新調すればよいのかと一瞬頭をよぎったが、そんなはずはなかった。

だってあれは、私に寄り添い続けてきた半身なのだ。たとえば砕けてこなごなになったら携行を諦めるだろうが、もちろん今はそのときではない。


最寄駅で電車を待っていたところだった。

――ひょっとして、これかな?

夫からメッセージを受信した。写真が2枚添付されてあり、よくよく見れば細かな傷が経年を確かに感じさせる「焦紅」のコンパクトの表面と裏面をそれぞれ撮影したものだった。裏面に貼られた色番号などをしめすシールを写したかったのだろう。私に馴染み続けた「魔法のコンパクト」が確かに救出されたことが一瞬で分かり、胸を撫でおろすような気持ちと高揚感がないまぜになって私を襲った。そうです、これです、私が探し求めていたものは。これです。ありがとう。ありがとう。愛してる。ありがとう。

夫によれば、子どもの手が届かないダイニングテーブルの中央に置かれたティッシュボックスへ、ねじ込むようにして隠匿されていたところが見つかったとのことだった。

そういえば心当たりがある。子どもがコンパクトを開くことを覚えたので、何かのはずみでパウダーが口に入らないようにと、とっさに取り上げて視界から永遠に消してしまおうとしたのだった。心の中で子どもを釈放し、かわりに自首をするような後ろめたさだ。

夫は昔から探し物が上手く、家を出る段になって、あれがないこれがないと騒ぎ立てる私の横をすり抜けて、難なく失せものを見つけ出してしまうのであった。割れ鍋に綴じ蓋、私たち夫婦ってよくできている。そう思いながら、体表にスマートフォンを構えた夫をぼんやりと写し込んだ「焦紅」の写真、これをニマニマと眺めていると、

――SUQQU ピュア カラー ブラッシュ 04 漆陽 URUSHIBI。

うるしび。この頬紅の名は、「焦紅」ではなく「漆陽」だった。ブラウザを立ち上げて検索する。同日に頬紅といっしょに買い求めた口紅の名が、「焦紅」なのだった。何だか足の力がへなへなと抜けていく気がした。自縄自縛、痴れ者。SUQQUのディレクターは私にそんな名を授けるだろうか。


出社したオフィスで、ボスに「顔色が悪いぞ」と言われる。まあそんな日もありますよと投げつけて、きょうも私は電卓を叩く。何てあほらしい。



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