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おぞましくていとおしい

ただの暮らしをやり仰せてきただけなのに、不意に叶ってしまう願いがいくつもあった。待って、いかないで、と叫び出したい喉が、きゅうっと締め上げられて、その息苦しさは胸に落ちて、呼吸を少しだけ乱し、凝固して小さな石となって、胃の底に沈む。

彼の歌声が聞きたいと思ったこと。
私の誕生日にハッピーバースデーのあれを歌ってくれたのを、うっかり聞いてしまった。きょうは彼の車の中で『木綿のハンカチーフ』がかかったので、私が適当に歌い出したら、張り合うようにして彼も歌い出してしまって、結局声を合わせて最後まで歌いきってしまった。

海が見たいねと言い合っていたこと。
私と彼にとって、海というのはどこか特別甘い響きを持った場所であって、なおかつ、どちらの暮らしにおいても海というのがとにかく遠く、そうであるからして、私たちにとっては、海というのは、とびきり甘くて、それでいて、ふたりの世界においては、浮世と大きく隔てられたところにあるような、そのような場所なんであった(ちなみに私の頭の中では、数年のうちに、たとえば鎌倉などに行って、「そういえば、海、見ちゃったね」と言って済ませてしまうのがスマートだと思っていた)。しかしながら、とつぜん決まった今日のデートでは、思いがけず長い時間を過ごせることが分かって、私の思いつきで海の方まで車を走らせることにしてしまったのはいいけれど、車窓から水面がきらめく景色が流れていることに気付いたときには、「このあたりは海だよ」「海だねえ」と言い合うにとどまった。車を降りて歩いていると、海上保安庁の巡視艇が停まっていて、彼がとつぜん「海上保安庁だっ」と大声を上げたのがいやにおもしろく、その日、私が何度も「ねえ、海上保安庁だよ」「ほら、海上保安庁だねえ」と語りかけたため、軽いひんしゅくを買った。

うちの近所に感じのいいバーがあって、まさかそことは言わないけれど、いわゆる「そういうところ」で、お酒を飲みたいものだねえと言っていたこと。
ホテルを出て、消去法的に選んだ回転寿司でいくつか摘んで、終わりの時間までもう少しあるけれど、このあとはどうしようねえ、どこかできみはお酒でも飲むかいと彼が言ったので、それならば、私を送り届けるついでに、うちの近所のバーで、どうです、あなたはノンアルコールの奴でも1杯、作ってもらっちゃって、と提案すると、意外にすんなり受諾したので驚いた。このあいだ開拓したばかりの、自宅から歩いて10分もかからないような暗がりの隠れ家のソファで、彼が隣に座っているのが不思議だった。私の超・生活圏内ということもあり、彼自身は比較的分別ある態度を心掛けていたようだったけれど、私はどうしてもキスがしたくて、隙をついて彼にキスをした。束ねなおしたのに漏れた前髪が色っぽいまなじりを隠してしゃらくさく、私は、うっとうしいなあ、とか言いながら、それを額のあたりにぺっと押し付けて、頬を寄せたり、唇を押しつけたりした。


2年も恋人の関係を続けていれば、「ふたりで実現したいこと」というのは際限なく生まれ出てくるものであって、その実現可能性や欲求の強さに応じ、それらの願望はピラミッド型に分布している。
たとえば、最上位にあるのは「温泉」とか「泊まりで旅行」とかいう類のやつである。お互いに絶対に浴衣が似合うと思い込んでいる節があるし、そもも、こもり熱を宿した身体をベッドでなく布団に持ち寄ることにどうしようもなくノスタルジックなエロティシズムを感じている節があり、これだけでも分かる通り、それは私たちにとって「絶対にやりたい」ことなのだ、しかしながら、私たちの社会的な属性を思えば、「時間を気にせずゆっくり」とか「泊まりこみで過ごす」とか、そういうのは、本当に難しいことなのだった。
だからこそ「温泉」とか「旅行」というのは、願望ピラミッドの頂点に燦然と輝いているのであり、続いて中腹には、おそらく「ふたりで満足のいくまで酒を飲む」とかがあり(基本的に彼に運転をすべて任せてしまうので、かりに飲酒のチャンスに恵まれたとしても、「満足のいくまで」というのは結構難しい)、はてさてボトムでは、キャッチーな欲望として、「またローションプレイをやりたい」とか「心ゆくまでアナルを責めたい」とか「袈裟姿のコスプレをしてほしい」とか、ラブホテルに向かう道中でドン・キホーテや信長書店に立ち寄ってしまえば叶ってしまう程度のものが蠢いているのだろう。

彼の歌っているのを聞くことも、海を見ることも、色気のあるバーで酒を飲むことも、全部、ピラミッドの埒外にあったはずだった。あまりにシチュエーションが局地限定的であり、かつ、圧倒的にチャンスが少ないのである。「そりゃあやれたらいいけれど、現実的には温泉よりも難しいんじゃない?」といったところだ。
シャイな彼に「何でもいいから歌ってよ」といったところで疎ましがられるのが目に見えているし、例えば「今度会うときにはどこか海の方まで足を伸ばしてみようよ」と彼が言ったとして、海、海ね、それは見たいよ、でもどこのやつ見る? ここからそう遠くないところでしょ? うーん、あんまりおすすめはできないかなあ、見どころもないし、時間がもったいないよとか言う自分の姿がありありと想像できるし、それならバーで呑むとしたって、私たちが夜の遅くまで過ごせること自体が貴重だし、それでいてこのご時世、「どこか感じのいいところに場当たり的に滑り込む」ことがどれだけ困難であることか。

だけれども、それの全部が、たったの1日で、叶ってしまったのである。

ただの暮らしをやり仰せているだけなのに、不意に叶ってしまった。彼との関係においても、また彼の関与しない私の個人的な人生においても、とりわけ建設的な努力を行っていなかったのにもかかわらず。
こんな風にあれこれ「叶っちゃった」としたら、嬉しいのだけど、両手離しで喜ぶことができない。待って、消化しないで、後悔を浚って、きれいにしていかないで、いなくならないでと叫び出したい喉が、きゅうっと締め上げられて、その息苦しさは胸に落ちて、呼吸を少しだけ乱し、凝固して小さな石となって、胃の底にぱらぱらと沈む。

きょう突然彼が消えてしまったって、これで二度と会えなくなったって、こんな関係なのだからそれが当然、とにかく思い残しのないように、悔いのないように、情景を、温度を、痛みを、味を、ざらつきを、余すところなく私の内部に焼き付けて、そうして、

掛け値なくそう思っているくせに、私ってば、「やりのこし」に異様に執着している。全部やりきった、与えきったしすべて与えられたとどの時点においても思い込んでいるのに、それを改めて肯定しようとすると、情けないくらいに、足元がぐらつく。すべて消化してしまいたいのに、それをしてしまったら、関係の依拠が霧消するに違いないからだ。今日だって───彼に問いただしたいことがあったのだけれど、それを精算したあかつきに味わうであろう刹那的な清々しさと、関係を継続する理由たりうる「やりのこし」を手放してしまう心もとなさとを天秤にかけて、私は、守りに入ってしまった。


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