見出し画像

菜摘ひかるになりたかった

シャネルの紙袋をゴミ箱に放り込む。こんな抜け殻を重宝がってクローゼットにしまい込むのは、とうの昔に卒業した(今はあんまり見かけないから若い子は知らないかもしれない、ハイブランドの紙袋をデイリーに活用する文化があったのだ)。

未開封のままクローゼットの肥やしになっていたディオールのノベルティのブラシスタンドを捨てた。フリマサイトで転売すればいくらかの小銭になったのかもしれないが、そもそもその時間が惜しい。時給に換算したら大きなマイナスだ。CtoCのコミュニケーションは趣味の領域でやるべきだ(調べてみたら1,500円がいいとこだって。アホじゃん)。

マークジェイコブスのレザーショルダーを捨てた。大学生のころ、これを提げて台湾を旅したっけ。体感で20年ぶりに引っ張り出したバッグの持ち手はとうにくたびれ、手入れを怠ったハンドルは黒ずみ乾燥して、ぱきっとひび割れてしまっていた。トレンドに取り残された野暮ったい女のリュックサックに縫い留められた「STANDARD SUPPLY」の銘板を見る、エスカレーターで輸送中の無為な時間を思い出す。マークジェイコブスの地位を貶めた今は亡きセカンドライン──のものではなかった気がするこのショルダーは、燃えるゴミでいいのかな。

マックスマーラのコートが目に留まる。流行を映さないスタンダードなフォルムのトレンチは1着持っておいて損はないというけれど、そうした原理を採択できるのは長身・痩身の女だけだ。ちっぽけで丸く太った私のような女は、ちょっとばかしトリッキーを効かせていないと、集団に埋没しそこねてしまう。そうそうちょうど、こんなやつとかね。ファッションは難しいから嫌いだ。何だかんだで毎年新しい誰かに褒められるこのトレンチは、そもそもが20年以上前に母親が買ったもののお下がりだ。「死ぬまで貸しておいてあげる」──140センチの小柄な砂時計の体つきと美しい顔をした魅惑的な母からレンタル中のこれは、彼女が灰になるまで捨てられない。

感傷に浸りながら断捨離などをやっている場合ではなかった。クローゼットで下着姿で汗をかきながら、今日の私を作るワンピースだけが、どうしても見つからない。


消費は快楽で、所有も快楽だ。メンテナンスには手間と時間がかかるほど良い。豊穣は惜しみない愛情でもって培養される。恋人はくたびれて出がらしのような男だけれど、頭のてっぺんからつま先までに美学と哲学が宿って、豊穣で充填されている。私はあれを、自己愛のたまものだと睨んでいる。

セックスに帰結する待ち合わせの前には三越に寄って口紅を買おう。恋が上手くいけばまじないを延命する杭になろうし、そうでなければたかが口紅、こんな道具に意味を見出すのがナンセンスだ。射精した男を先に眠らせて、鏡に「さよなら」──ってバブルのお作法は、清掃の方にご面倒をおかけするので止めておくとして、帰りの駅で廃棄しちまえばいい。

爪を伸ばしているのはオナニーにあたって恋人の噛みつきを再現するためだ。電卓・キーボードの打鍵にあたっての合理性と清潔を考慮して短く切りそろえていた爪を伸ばすようになってから、膣に指を押し込むことにためらいが生まれるようになった。観念して、人生で何度目かわからない、ディルドを買った。好きな男に甘えて、あなたのサイズで選んでと言った。我ながらグロテスクな執着の顕現だと思う。


選んだのは、月に何度かオフィスで着る、プレーンなネイビーのワンピースだった。姿見をみれば、コスメデコルテのアイグロウジェムだけが馴染まない。どうもラメだかパールの粒子が大きいようで、同じクリームシャドウなら、クレドポーのやつのほうがよっぽど馴染む。夏に新宿の伊勢丹でメイクアップアーティストの来店に偶然出くわし、新作のリップとともに選んでもらったコーラルピンク。手に取った時には「なんて地味な」と思ってしまったけれど、数か月経ってみればしっくりきちゃうんだからいじらしい。私は毎日死に向かっている。消費したやつらの屍のうえに、私だけのノーブルを醸成しなくては。

冬の気配をすぐそばに感じるこんな日には、1年前の私ならブラウンのリップを選び取っていただろう。きょうもスックの「恍華」を選んだ。私の3人目の男を想って選んだ色──違うちがう、みんな1人目でたったのひとりきり。唇に男を住まわせていれば、たぶん私はどこにでも行ける。

ファッションは難しいから大嫌いだけど、ゴスもパンクもコスプレもロリータも原宿系もコンサバもギャルもモードも全部やった。今ここには冴えないおばさんがいるだけ。でもって別にそれでいいんだもん。

後悔はロングヘアとミニスカート。もっと楽しんでおけばよかった。腰までの青の黒髪のエクステンションで夏期講習の教室に現れた私をクールだと誉めそやした美容師志望のあの子は、都会のサロンで消耗してうつ病をやってしまった。頭髪の乱れは心の乱れ。ミディアムヘアをいくぶん神経質にブローして、ミモレ丈のスカートを選んだら、若い女の細い腕では到底その重みに耐えられないセリーヌのあれと、ぶん殴りに行くのだ。男を、私の教義とかいうやつで。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?