3月2日、必要火急の不倫セックス

予定の電車までは30分以上待ち時間があったから、ドトールでアイスコーヒーを注文した。

「おれたちの中間地点はここかな」──愛知県外の過疎駅を示して、彼。きのうスクリーンショットで寄越した待ち合わせ場所の天気予報は晴れ、気温は13度。私の体はまだ名古屋にあるけれど、顔半分を覆い隠したマスクのおかげで体感温度は高くて、これから数十分を電車に揺られて過ごすのだから、あんまり化粧が浮かないように、と思って、アイスコーヒーを啜った。


コロナウイルス。どこへ行ってもマスクは品切れで、小中学校の休校要請を受け、スーパーマーケットは長期消耗戦に備えた主婦たちで溢れかえっていた。非常事態だ。小学生のお子さんを持つチームのメンバーが早くもオフィス出社不可能となったので、リモートワーク環境を整える手伝いをしたり、慌ただしく先週末が過ぎた。

彼が突然に「仕事を中抜けして時間をつくる」と言い出したのは数日前のことだった。

私の方だって、突然に保育園が休園になるかもしれない、彼だって「当日までどうなるか分からないけれど」と言っていたから、夫にもそれらしい言い訳をきちんと用意できないまま、そわそわしながらこの日を迎えた。夫と子供を送り出して、身じたくを整えながら、あと数時間だけ、どうか今日の私に自由時間をください、と祈った。じつは今朝、当初の予定から1時間も早く仕事に戻らなければいけないことになったという彼から、それでも会ってくれますか、とメッセージが届いていた。


1人用のブースのような席に腰掛けて、すみれ(@sumire_mmmm)さんのnoteを読んだ。

すみれさんはきっと、スクールカーストで言ったら「クイーンビー」だろうな。キラキラした秩序を無意識かつしなやかに生き抜く、正しくて美しい女性。ツイートはさっぱり都会的だけど、彼女のnoteには、きちんと「執着」がある。不倫中の彼と、この時期に(この時期に!)既婚者である恋人の故郷に(既婚者である恋人の故郷に!)旅行に出かけたのだそうだ。

私たちにはお互いが絞り出した「今」しかない。不要不急の外出を控えるべき国として勝負の1−2週間にだって、平気な顔して旅に出る。偏差値が低いのだろうが、自分には正直だ。

すみれさんも、無茶をやってんのね。

そう思ったら、最近は活動を停止していたはずの涙腺が活発になり、視界があっという間にぼやけてしまった。いま涙が出てしまっては困る、と思って天井を睨んだ。noteのアプリを閉じて、こころの「あとで読む」フォルダに留め置いた。

無心になるために、the GazettEというビジュアル系バンドのアルバムを聴く。「やがて来る酷の前触れ」とボーカルが歌って──そう、彼のセックスは嵐のようなので、これくらいの情緒でちょうどいい。少し前にaikoがサブスクを解禁したそうだが、彼女の曲だったらきっと、とうとう突っ伏して泣き出していたかもしれない(aikoの曲はカブトムシのやつとテトラポットのやつのサビしか知らない)。

もう大丈夫。

ボーカルががなり立てるまま、もう一度、すみれさんのnoteを読んだ。ダメだった。ふつうに泣いちゃって、不意に目が合った学生ふうの女の子がぎょっとしていた。

2人でいると必要な言葉の数も語彙が減って、その分、表情や温度を敏感に感じ取る。
いわゆる遠距離恋愛を始めた私たちにとって、お互いを直に感じることだけで意味のあることだ。触れるってすごい。

すみれさん、こんなに直情的な表現をする人だったっけ。私も彼に触れたい。電車が予定よりも早く来たらいいのに、と思う。このままここにいたら、有無を言わせない現実に連れ戻されそうな気がする。触れるって、ほんとうにすごいことだ。

私たちだって、遠距離恋愛でなければ、こんな無茶をやらなかったかもしれない。触れるって本当に代え難くて、いざそれが叶ったときには、言葉は剥がれ落ちて、すべての文脈をなぎ倒していく。嵐のように。

それにしたって、すみれさんだって、こうやって人知れず、こっそり負けているのだ。彼女の言葉を借りれば「偏差値の低い」情動に。


これはもう少し前に、雨あがりの少女(@ameagari_girl)が書いたやつだ。

これからもっとウイルスが流行し、緊張感が増してくると、セックスは賭けになるだろう。この人はウイルスを持ってないという、ほとんど無根拠の賭け。そして、この人のウイルスならもらっても仕方ないという、無根拠の愛。

私たちは、この世界の劇的な変革に加担することができないのを知っている。自分がきちんと影響を及ぼすことの出来る、最小単位としての世界の小ささも。ついでに、そんな小さな世界に対する落とし前の付け方だって、私たちは身をもって知っているのだ。

大人はずるくて愛おしい。私も彼も、「無根拠の愛」というより、きちんと財布の有り金を確認して、終電の時間や帰りの電車賃なんかも確認して、それでもって博打をやる感じなのかもしんないな。すみれさんはどう? 雨だって、ほんとのところはどうなの。


電車に乗る。山道が険しくなるにつれて乗客が減っていき、数日前に初めて名前を聞いた駅で降りるころには、ついに車内は私を含めて3人、なかでも、マスクをしていたのは私だけだった。

まさしく田舎のローカル駅、というやつだ。ICカードが使えるのが信じられないくらいの。改札を出てきょろきょろすると、意外と駅前には人の気配があって、休校を持て余したと思われる女子中学生がたむろしていた隣のベンチに腰掛けて、彼を待った。あんまりご近所さん以外を見かけないのだろう、彼女たちの視線がたまに、ちくちくと刺さる。

10分ほど遅れて彼が着いて、頽廃的な美貌の猫背がにゅっと現れる。待ち合わせて私を見つけると彼の眉毛はいつも八の字になるので、たまに底意地の悪いことを言うけれど、このひとの根は善人なんだろうな、と思う。派手な上着を着ている。

荷物をどかすから待っててよ、と助手席を空ける背中に抱きついたら、うそみたいなことに、太陽のにおいがした。「おれも美容院に行っておけばよかった」という髪の毛が無造作にひっつめられていて、初めて会った時みたい。背越しにおなかから、服の中に手を入れて小さな乳首を見つけた。「なんだよ」と笑ったので、もういちど、太陽を嗅いだ。



■ つづき:


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