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9月4日の日記

日傘のつゆ先(と呼ぶのを初めて知った、雨を想定しない日傘のパーツを指して「つゆ」と呼ぶのもおかしな気もする)がスカートのチュールを絡めとってしまった。巨大なオフィスビルの4階に入居するクライアントを訪ねるエレベーターの中で、しまった、と私が慌てふためくのを見て、男は冷静に最上階数をしめすボタンを押してから、「ちょっと貸してみ」と言って、跪いて絡まりを丁寧にほどき始めた。

途中で乗り込んでは降りていった人びとの数人は、怪訝そうな一瞥をくれたけれども、「すいません、すいません」と私が繰り返したり、「もうちょっとでいけそう」と真剣な様子で格闘する男の様子を見て、ぼんやりと何事かを理解し、その後は急速に興味を失っていったようだった。

最上階にたどり着くころには、日傘とスカートは無事に離れ離れになっていた。ねえ、したくなっちゃった、と私が言うと男は笑って、改めて「4」のボタンを押した。下界が見渡せるスケルトンの密室は、男の香水が淡く漂っている。サボンのような清潔感のある香りは、まれに柔軟剤と誤認してしまいそうだ。


定例の会合を終えて帰社する東山線のホームで、ねえ、したくなっちゃったのともう一度男に持ちかけた。困ったように男が言うことには

「そりゃあしたいけどさあ、おかしくなっちゃうじゃん、関係が」

ということだった。彼氏はいつでもしてくれるけど、と言うと、

「そんなの体だけの関係だろ、大事なのは心でしょ」

とまじめくさった表情で、言った。私が

「体は大事だよ」

と応酬すると、男は灰色の頭を掻いてうーんと唸り、私たちはオフィスの最寄り駅で降車した。日曜日には、白昼のラブホテルであんなに私を求めたくせに。いまさら紳士ぶっちゃってバカみたい。小さな乳首を舐めたら、情けない声で痙攣させていたくせに。


スターバックスでワンモアコーヒーを引き換えたあと、オフィスのエレベーターホールで、男が「さっき、おしり触っちゃった」と思い出して言った。続けざまに

「いやーっ、若い子のおしりはいいねえ」

といやに演技がかったようすで言って、大げさに破顔した。

以前恋人は、自分の不在を護るために、各種の装身具や実用品を私に贈るのだと言った。それはある意味での冗談だったにしろ、もう少し強いまじないでなければ、呪われるこちらも戸惑ってしまう。そもそも訪問先に日傘を持参することが大間違いのような気もするけれど、どうしたって日に焼けたくないので、絶対にそこは許されたい。

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