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表現の森 アーツ前橋

アーツ前橋で行われている「表現の森」。やっと見に行けましたが、とても良い展覧会だと思います。高尚なハイアートばかりがもてはやされるこの国では、こうしたものをもっと見られるように、もっと評価されるようにならないといけないと思う。そうでなければ、何のために表現の自由が許され、それを見る機会や場所を社会が保証せねばならないのかが広く共有されないから。

アートとして見るとかなりマージナルな領域ということになりますが、個人が「個性ある存在」として自分の置かれた状況や思想・想い、世界観、さまざまなものへの執着などを、ほかの人たちに伝わるような形に表すことが表現活動だとするなら、この展覧会で見られるものはまさに多様な主体の表現の森です。

展示を通して私たちが突きつけられるのは、この展覧会に限らず、自分たちがその表現を受容することが出来るのかということに尽きる。すでに確立した様式の受容の訓練、あるいは確認ばかりが美術館という場所で求められることだと思われ、それが教養とかセンスと語られると、既存の枠内に留まるしかなく、マイノリティはマイノリティーのまま扱われ、可視化されることはなく、存在を認められることもない。グラデーションをより細かく繊細にすればするほど、あらゆる人が何らかのマイノリティとしての性質を必ず有するはずだけど、「正常」とか「多数派」に合わせる(矯正する)ことで、私たちの感度はきわめて鈍くなっていってしまう。

こういう展示を見て、自分に見えていないものに気づかされたり、自分のマジョリティを守るための境界が何であるのかを自覚できたら、自分の立場や自分という存在以外への想像力を少しでも増すことができたら、それまでと違って世界が見えてくるはずだと思う。それがあって初めて自分のアクションの動機が生じてくるはずだとも思う。アートはあくまでも体験を通した認識の学び。日常の体験もそれを生むが、展覧会をはじめとする作品体験もまたその貴重な機会となる。そういうことを再認識しました。

個人的にとても好きだったのは、たんぽぽの家の伊藤樹里さんと中川雅仁さんの活動。障害を抱えるこの二人のこだわりは、一般社会では無意味なこととして無視されてしまうようなものだろう。しかし、それぞれの行為には彼らなりの強固な理由、そして強烈なイマジネーションが背景にあり、それを知ることで「ものと自分」「想像力と現実」の関係について深く考えさせられる。それと同時に、とってもハッピーな気分にもなれた。

アフリカ、ケニヤの少年が書いたポスターについてのインタビューもとても印象に残っている。彼は平和について考えたときに「妊娠した女性」をイメージし、それを描いた。「女性が子どもを産むには、「平和であること」が大切だし、生まれた子どもが平和を広げてくれる」という彼の言葉はとてもストレートで強く響いた。彼らと日本の子どもたちは置かれた状況が異なるし、その状況の複雑さや見えにくさが日本で表現することの難しさでもあるけれど、その状況の中で、自ら感じ、その感じたことを意味づけて表現していく回路を自身の内に持つこと(私がWiCANでやってることですが)の必要性も再確認できたように思います。その実感が伴った表現への意志がないと、何かが始まることもないと思う。それがアートの持つ大きな力の一つだと思う。

釜ヶ崎芸術大学の依存宣言感謝祭も、中島佑太×南橘団地も、滝沢達史×アリスの広場も、まあ結局みんな良いですな。

9月25日までです。

https://www.artsmaebashi.jp/?p=7513


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