アートという語が無責任を生む

今回のデザイン・ウィークの問題は、専門家のスキルが問われない領域としてアートの「自由」が利用されていることが問題だと考えます。

アートだったらゆるくて良いというのが「自由」の尊重だと勘違いされ、悪用されている。

秋元康の「アートだから」言い逃れ案件も、デザイン・ウィークの事務局が細かいことを言わなかった際の言い訳「アートなので」も同じ構造にある。もっと軽薄な例だと、小学校中学校の図工美術のなかでの「アート」の使い方もそう。なんでもありで、説明しなくても自由でよいよね、といった無責任な領域としての「アート」。例えば千葉県の造形教育研究大会での年度テーマが「思いっきりアート!」だったことがあったけど、結局のところ「実践」だけがあって、内実がないことのごまかしにアートが利用されている。そのことを批判してもなかなか理解してもらえなかったことも覚えてる。

アートの定義自体はあいまいで多義的なものであり、時代とともに変化もしている。だからといって現実の世界であいまいなまま都合よく使うことが許されるわけではないと私は思う。あいまいだからこそ、それを自分はどのような意味で用いているのか、立場を明確にする責任がある。その責任を果たすことが、その立場が負うべき責任を明確にすることにもつながる。

今回のデザインウィークの件についていえば、デザインの有料のフェスティバル(イベント)なのに、簡単にアートという言葉を用いてることに、あまりにも主催者側の意識の低さを感じる。デザインとは何か、アートとは何かを問うことをしなければ、イベントの枠組み、あり方を決められるはずがないのに、そこがなおざりにされてしまっている。おそらくあいまいにアートという語を用いることで、自由な色彩を帯びさせて、参加者の範囲を広げ、数も増やすということも目指されていたのだろう。自由さが出品作品の魅力につながることを期待したのかもしれない。もしそうならあまりにも浅薄だ。建築の領域も含むデザインのフェスであるならば、それが誰かに使用される場合に想定される問題を理詰めで解決し、提供することが求められるはず。そしてその領域にはその蓄積があるはずだ。別の言い方をすれば、理詰めで固められた枠組みがあった上で初めて自由な領域が設定可能となるし、意味も持つということ。しかし、アートを纏わせることで、その責任を放棄している。そして、マスコミが簡単に「アート」と形容することも同様に無責任だ。「田んぼアート」とか「シャッターアート」とか、やたらアートと名付けて取り上げるが、それがアートと呼ばれることを説明している記事を見たことがない。説明不要というほどアートという語は明瞭ではないのに。

「アートが人を殺した」という人には、あなたの言うアートが何なのか定義づけた上で語る責任がある。それをしないのなら、それは火が存在するから人が死ぬって言ってるのと変わらないと思う。「火が人を殺したよ」って。確かに火は人を殺す可能性を持つ。しかしすべての火が人を殺すわけでもない。どんな火が問題なのか、火をどんな使い方をしたから問題なのか、それを語るべき。まぁ、アートは火よりもっと多義的だから、定義づけをしないで非難するのは、もっと愚かだな。もっとも火よりも価値が見えにくいから批判もしやすいわけだが。

確かにその問題はアートの領域そのものにもはびこっている。それは今回の問題そのものではないが、共通項はあるということ。アートの定義をあいまいにしてアートの語を用い、責任を全うしないという態度は、あらゆるアートフェスの現場にもはびこっている。あいちトリエンナーレの文鳥アート問題もそう。本当に必要な専門家が現場にいない。現代のアートの専門家には、横断的にほかの専門知を総合するような能力が求められてるのに、そんな勉強も経験もしていなくて現場を持っている。だから次から次へと問題が発生する。デリヘルアート問題しかり。今のアートフェスの現場には、美術史やってたなんてことだけではほとんど役に立たない。他者が(他の生命が)かかわるような枠組みを作るなら、その枠組みの中での果たすべき責任を全うすべき。安全(生命の尊重)や人権への配慮などはその最優先の責任。そして、現場によってチェックすべき点は変わっていく。それをチェックできる能力を有していない人たちにマネージメントできるはずがない。

という意味においては同根の問題とは言え、デザインウィークはアートそのものの問題ではないが、専門家とはだれなのか?それが問われていて、それがフワフワした中身のないアートという語の使用法でごまかされている現状が問われているのだと思う。従来の専門家とは異なる専門性が求められている現代において、どのような人材を育成するのか、どのような人に依頼をするのかがとても重要なのに、育成も全く行われていないし(ほとんどのアートマネジメントってほとんど役立たずじゃない?)、一昔前に有効だった経歴や実績で依頼がされていることにほとんどの問題があると思う。デザインウィークについていえば、建築という、理詰めでなければ、さまざまな角度からの安全や信頼がなければ成立しないエンジニアリングの領域の人たちが関わっていてあの事件が起きたことが最も恐ろしいことではないかと感じている。アートはそうしたところを抜け落としてしまいがちなので、様々な問題を起こしうる。そこをどう考えるべきかを私はここのところずっと仲間たちと議論してきたつもりなのだけど、今回の件はアートという語にタダ乗りした大人たちが責任を果たそうとしなかったことが問題なのだと思う。デザインのイベントだからアートは無罪!なんて浅いことを言いたいわけではない。

お子さんが亡くなったことは本当に痛ましいし、やり切れない思いもある。しかしアートそのものが有罪ということではなく、専門家とその責任の問題だと思う。責任者がいかなる専門性において責任者なのかも問われている。それはまたアートやその周辺の界隈に特有の問題でもない。昨今の政治の問題ともさらに奥のほうでつながっているとも思う。

心からお悔やみを申し上げます。その状況を想像するたびにつらく思います。

だからこそ、考えて、議論して、語る責任があると思っています。簡単に犯人を名指すことでは何も改善しないし、亡くなったあの子にも申し訳ない。



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