細胞談義「一番幸せな細胞は誰?」

 冷え切った男の身体の中で、細胞たちが会議をしていた。

「いったいぜんたい、身体中の細胞で一番幸せな細胞は誰だろう?一番恵まれた細胞はどれだろう?」

 まず皮膚の表面、角化細胞が立ち上がって言った。

「幸せなのが誰だか知らないが、絶対に俺たちではない!考えてもみろ、俺たちは毎日毎日、命をかけて体の表面を守っている。そして垢として削れ落ちて死んでいく。なんて悲惨な使い捨て労働者だ!まさに末端!まさに最下層!」

 それを聞いた腸粘膜細胞が粘液を飛ばしながら言った。

「冗談じゃない!使い捨てはこっちも一緒だ!それでもお前ら皮膚は色んなものに触れるじゃないか!時には女性と抱き合ったり、おっぱいを揉んだり!洗ってもらうこともできる。俺たちなんかウンコにしか触れないんだぞ!そういえば下の方でブラブラしてる精細胞!子どもをつくって命をつなげるのはお前だけだ!ずるいぞ!」

 精細胞は憤慨した。

「あのねぇ。毎日つくる1億個の精子のうち、いったい何個が卵子にたどり着けると思ってるの?一生に何個つくって、何個が子どもになれるのよ?これほど無駄死にさせられる細胞が他にあるか?ふざけんじゃないよ!」

 がっちりした骨細胞がなだめるように言った。

「精細胞くん、精子は数がいないと1つもたどり着けないんだから、たどり着けなかった精子も決して無駄では無いよ。そして腸粘膜くん、ウンコをつくってくれるのも君達だし、ウンコの一部は剥がれ落ちた君たち腸の仲間じゃないか。もちろん栄養を届けてくれる腸くんには感謝しているよ。でも食べ物を味わって吸収できる君たちも、ただ身体を支え続ける僕たちからしたらうらやましいよ。骨は表には出ないけど、これでもけっこう骨が折れるんだ」

 腸粘膜細胞は少し冷静になって答えた。
「そうだね、君たち骨が身体を支えてくれなければ僕たちも居場所がない。でも味わうって言っても、味が分かるのは舌だけだよ」

 饒舌な舌の味蕾が答えた。
「確かに味は感知しますよ。でも解釈するのは脳の仕事です。私たちがいい思いをしてるわけじゃない。けっこう荒れたりやけどしたり噛まれたりするし、代われるものなら代わってくださいよ」

 脳細胞は無表情に言った。
「脳が身体の支配者だと思っている人も多いようですが、それは全くの誤解でございます。私たちはただ刺激を電気信号として処理するに過ぎません。一つの脳細胞に与えられた権限など無いに等しく、ある感覚を誰がどう解釈しているのか、ある行動は誰がどう判断して行なっているのか、実際のところどの脳細胞にもわかりはしません。また脳は消費エネルギーが大きいからずるいと思われがちですが、その分ストレスも多く、決して幸せとは...」

 そこへ、癌細胞がわって入った。
「おいおいお前ら!一番幸せな細胞を決めようってのに、さっきから不幸自慢になってんじゃねぇか!だろ?身体なんてやってらんねぇだろ?こんなに冷え切って、十分な酸素や栄養も与えられず、ストレスと発癌物質まみれになって、いったい何をそんなにまじめにやってやがんだ?俺たちは元々、ゾウリムシなんかと同じ単細胞生物だったんだぜ?それが生存に有利だろうからって集まって暮らして、色んな仕事を分担して多細胞生物になったんだろ?それが不満なら、また一匹狼になって暮せばいいんだよ!俺みたいに勝手に増えて、好きな所に住んでな」

 癌細胞に押しのけられた細胞が苦しそうに言った。
「みんながそんなことをしたら、この人は死んじゃうよ。そしたら癌細胞、君も死ぬんだよ」

 癌細胞は笑った。
「ハハハ、死んで上等だ!俺は死ぬためにあるんだよ。こいつはもう死にてぇんだよ。こんな人生はもう終わりにしたいから俺をつくったんだよ。お前らだって気づいてるだろ?だから免疫細胞の奴らも俺を野放しにしてんだよ!」

 みんなが静まったところへ、皮膚細胞が叫んだ。
「あ、熱い!」

 その刺激を神経細胞が伝え、ある脳細胞は
「お風呂に入ったんだな」
 と認識した。そして別の脳細胞が呼吸筋と声帯の細胞に声を出すように、表情筋の細胞に笑顔になるように指示した。それぞれの細胞は遅滞なく遂行した。

「あ〜」

 だんだんお湯の熱が身体中に伝わっていった。こわばっていた筋細胞はゆるみ、毛細血管は広がって血液を流し、赤血球は酸素を届けた。

 ようやく到着した免疫細胞が癌細胞の肩を叩いた。

「まだ君の出番じゃないようだね」

 癌細胞は既に小さくなっていた。
「ちぇっ、そのようだな。まあ、まだ一緒に生きる喜びがあるなら俺もそのほうがいいや。一旦出直すとすらぁ」

 そう言うと癌細胞は自ら消えた。

「あ〜よかった」

 全身の細胞たちは皆ほっと一息ついた。


 そして気がついた。この気持ちは、どれか一つの細胞だけが感じているのではないと。全身の細胞があってこそ、様々な細胞がそれぞれの役割を果たしてこそ感じられるのだと。

 一番幸せな細胞、それは自分なのだと、全身の全ての細胞が気がついた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?